2017年1月12日

地質学、激動の時代の終わり Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 36

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 534-52.

Ch. 36 未来のために蓄える(1840–45)

36.1 更新世氷河期
アガシーが『氷河に関する研究』(1840)を出版した数か月後、シャルパンティエは『氷河に関する試論』(1841)を出版した。名声はアガシーに奪われたが、最終的に受け入れられた氷河説はシャルパンティエのほうに近かった。ダーウィンは1842年に北ウェールズの丘を再訪し、以前見えなかったものが見えるようになったとして局地的な氷河説には納得した。この頃、北極と南極の探検が進み、報告や図像が届いたことは氷河説に有利に働いた。

36.2 フィリップスとグローバルな地史
地史を化石によって区分するプロジェクトを進めたのはフィリップスであった。フィリップスは1841年に、化石に基づいて古生代・中生代・新生代という三区分とその下位区分を提唱した。一方、カンブリア紀やシルル紀やデボン紀といった区分は、岩石に基づいており局地的なものに過ぎないとして拒否した。読者は、フィリップスの三区分を、人間の歴史における古代・中世・現代と平行関係にあるものとして理解した。

36.3 アガシーと生命の系譜学
生命の歴史に方向性があることはますます明確になっていた。ライエルはこれを疑い続けていたが、そのような立場をとっていたのはライエルと、せいぜいダーウィンぐらいであった。アガシーが描いた魚類の系譜図でも明らかになったように、生命は時代を下ると共に多様化し、「高等」なグループが出現しているように見えた。これは、ラマルクの理論とも調和しない認識であった。

36.4 ヒューウェルの歴史的・因果的な科学

新たに誕生した科学を定義するのは、外部の大学者の仕事であった。ヒューウェルは『帰納的諸科学の歴史』(1837)と『帰納的諸科学の哲学』(1840)を著し、地質学を「古物学(palaeontology)」と「原因学(aetiology)」の結合した学問(palaetiology)として表現した。このような造語は広まらなかったが、地質学の科学としての地位は確立された。

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