2017年4月2日

驚異と好奇心 Daston&Park, Wonders and the Order of Nature, 第8章前半

Lorraine Daston and Katharine Park, Wonders and the Order of Nature, 1150–1750 (New York: Zone Books, 2001), pp. 303–316.


第8章 探究の情熱

 1672年にニュートンがヘンリー・オルデンバーグに向けて書いた手紙には、プリズムを通した光の見え方に彼が驚異の念を抱き、それが好奇心につながったのだという経験が記されている。中世の自然哲学や道徳哲学においては驚異と好奇心は縁遠いものであったのだが、ニュートンや初期近代の人々にとって、驚異は好奇心をかき立てるものになっていた。だがこの後、18世紀前半までには、驚異と好奇心は再び分け隔てられていくのであった。

 以上のような変化が起こったのと同時に、かつて素晴らしい哲学的情熱として称賛されていた驚異の念は、無知や無教養の印とみなされるようになった。驚異は、哲学的エリートの情熱というよりも、卑しい大衆の感情として理解されるようになったのである。また、かつて色欲(lust)や高慢(pride)として罵られた好奇心は、公平無私でひたむきなナチュラリストの象徴だと考えられるようになった。好奇心は、色欲や高慢というよりは、物欲(avarice)や強欲(greed)に近いものだとみなされるようになったのである。こうした変化は、自然哲学者たちの研究の対象や手法に影響を及ぼした。

 本章では、驚異と好奇心に関する以上のような変化について論じる。最初に、17世紀に好奇心が色欲の類から強欲の類に変容し、それが好奇心の対象をも変えたことについて説明する。次に、17世紀半ばに驚異と好奇心が自然哲学的な探究の心理において合流したことを説明する。最後に、18世紀前半に驚異が主要な哲学的情熱の座から降格し、一方で好奇心は軽薄さの印から有徳さの証に昇格し、両者が分岐したことについて説明する。


● むさぼる好奇心

 西洋の哲学的伝統において、驚異と好奇心はほとんど2000年にわたって中立もしくは反対の関係にあった。アリストテレスやその注釈者たちにおいて、驚異(thauma)は哲学的探究の始まりであったが、その探究は好奇心(periergia)とは無関係だった。第3章でみたように、アウグスティヌスは驚異を神に対する謙虚さの表現として称賛した一方で、好奇心は色欲や食欲に関連付けて酷評した。アウグスティヌスの議論は長きに渡って大きな影響力をもち続けたが、初期近代になると、旅行者や自然研究者のあいだで好奇心を好ましく見る向きも出てきた。

 初期近代における好奇心は、アウグスティヌスにおける好奇心と大きく違っている。二つの重要な違いがあり、一つ目は色欲から強欲に移行したこと、二つ目は驚異と関連付けられたことである。

 17世紀に好奇心を論じた人物で、アウグスティヌスに比肩しうる名声をもっていたのはホッブズである。ホッブズは、人間を野獣から区別するものは好奇心だと主張し、好奇心を擁護した。ホッブズは、色欲や食欲といった身体的な欲求は満たされれば止むのに対して、好奇心は止むことがないという違いを強調した。このような特徴付けは、好奇心を努力に結びつけた。マラン・メルセンヌも、学者の生活を好奇心に基づいた休みなき探究として捉えた。こうした理解は、好奇心を色欲や食欲というよりも物欲や強欲に接近させた。

 初期近代の好奇心は、贅沢さと関係が深い。メルセンヌは、好奇心は日常生活に不要なものであると考えて、これを贅沢品とみなした。17世紀後半においては、特にフランスで、「好奇心をそそる」ということは「役に立つ」ということとまったく反対の意味だと考えられた。好奇心の無駄さは、アウグスティヌスの伝統では非難の対象であったが、今やその役に立たないということこそが、公平無私であるとして称賛されるようになった。


● 驚異と好奇心がむすびつく

 17世紀半ばにおいて、新しいもの、珍しいもの、普通でないものへの愛着が、好奇心を驚異に結び付けた。だが、この時代の驚異は、アリストテレス的な自然哲学における驚異ではない。アリストテレスの驚異が普遍的なものに関心を向けていたのに対して、この時代の驚異は個物に関心を向けている。

 17世紀の自然哲学者たちのなかで驚異と好奇心が結合したのには理由があった。驚異が注意を引き、好奇心がそれを固定するという役割分担があったのである。さまざまな燐光体についてのボイルの研究の例が示すように、この時代の自然哲学者たちは個物にこだわり、その詳細を大事にした。退屈になったり気が散ったりしても観察対象を見続けるためには、好奇心の働きが必要であった。好奇心が注意を引き続けることで、正確で厳密な調査ができた。

 一方、真実を追究するという目標があっても、驚異の念なしでは対象に注意を向けることは困難であった。フックがどこにでもいるようなハエの観察に関心を抱くためには、顕微鏡でハエを拡大し、驚異を感じなければならなかった。好奇心を刺激するためには驚異が必要だったのである。だが、それと引き換えに観察の対象や方法は制限を受けることになった。

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