2018年9月18日

ジェントルマン科学人と職業科学者のあいだ Endersby, Imperial Nature, Introduction

Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (Chicago: University of Chicago Press, 2008), pp. 1–30.


● イントロダクション

 ヴィクトリア朝(1837–1901)は、一般的に科学の職業化が進んだ時代として想像されている。工業化が進み、社会構造が変化し、進歩への傾倒が伝統への信頼にとって代わり、帝国が拡大し、科学が宗教に衝撃を与えた時代なのだから、大学で訓練を受けた科学者たちという新しい集団の台頭がその時代の象徴だというのはわかりやすいイメージだ。しかしこのような一面的な見方は、歴史家たちが近年明らかにしてきた、より豊かで複雑なストーリーを埋没させてしまう。英国で科学に携わっていた人々は、科学によってお金を得ることを立派なことだとはまったく思っていなかったので、職業的科学者の地位を積極的に目指していた人間は数少なかった。彼らは自分たちを私心のないジェントルマンだと思っていて、科学の職人だとは思っていなかったし、ましてやフランスの科学者たちがそうであったような政府の下僕だとも思っていなかった。彼らの多くは、愛好心のために科学をするということに誇りをもっていて、その点において自分たちは金銭のために職業として科学をしている人々よりもまさっていると考えていた。今日では、プロはアマチュアにまさっていると当然のように思われているが、当時はそのようなカテゴリーが定義され取り決められている最中だったのである。エリートである科学の実践者たちにとってのモデルは、知識の探求のために私財をなげうち、国王の友人兼アドバイザーとして帝国に貢献するも、政府の役職には就かずお金も受け取らなかったジョセフ・バンクスのような、18世紀のジェントルマンの理想を体現した人物であった。
 特別に大きな財産をもたなかったナチュラリストたちにとって、金銭的収入とジェントルマンの理想像は難しいジレンマであった。ナチュラリストたちは、帝国のあちこちから標本を集めてくれる協力者たちのネットワークに頼らなければならなかったが、彼らに十分な見返りを与えて懐柔するには名声も必要だったからである。
 本書ではジョセフ・ダルトン・フッカー(1817–1911)に焦点を当てるが、それは、ダーウィニズムの受容、帝国がもたらした帰結、科学専門職の出現という、ヴィクトリア期の科学に関する我々の理解で際立っている三つのテーマが彼の人生で中心的な位置を占めるからである。フッカーは1817年、グラスゴー大学の植物学教授やキューガーデンの園長を務めたウィリアム・ジャクソン・フッカーの子として生まれた。父の友人の力添えで海軍艦艇のエレベス号に乗船し、1839年から43年まで南極探検航海に参加した。帰国後、自ら収集した植物および植民地の協力者たちから入手した大量の標本をもとにして、南極大陸やニュージーランド、タスマニアの植物相について詳述したシリーズ本を刊行した。フッカーはこの業績で得た名声に後押しされてキューガーデンの副園長となることができ、1865年に父ウィリアムが死去するとこれを継いで園長に就任した。フッカーは、名声を損なうことなく職業的科学者の地位に就いた最初の人物の一人であるといえる。その一方、南極探検航海からの帰国後にはダーウィンとの文通も始まっており、『種の起源』出版後には公刊物で自然選択説を擁護した最初の人物となった。ただし、フッカーによる自然選択説の支持は今まで考えられてきたより複雑な問題であり、自然選択説のいくつかの含蓄から距離を置こうともしていた。
 本書では、先述した三つのような多様なテーマを結びつけて描き出すために、ナチュラリストの「実践」に注目する(本書では「実践」を、物質的なものを扱う仕事をする行動というような意味で用いる)。採集や分類といった日常的な実践を詳細に調べ上げることで、いかにしてそうした活動が科学の理論的考察に至るまでを形作ってきたかを示したい。とはいえ、科学の生産様式が科学的概念の内容を決定するという決定論を主張したいわけではない。そうではなく、実践に注目することで科学の性質についてのより良い理解を得られるということを示したいのである。

 科学は職業(profession)なのか、それとも天職(vocation)なのかという問いは、ジェントルマンとは生まれなのか、それとも育ちなのかという問いに内包されていた。科学を志そうとする人が描く将来像は、ジェントルマンのイメージによって形作られたのである。フッカーの父ウィリアムは、受け継いだ土地を売り払って醸造所に投資したが失敗し、ナチュラルヒストリーで生計を立てていくことになる。ウィリアムはグラスゴー大学に教授職を得たものの、こうした職は他にお金を得る手段のあるジェントルマンが務めることが前提となっていたため、給料はわずかなものであった。そのため、ウィリアムは教室の扉の前に立って学生から受講料を集めたり、Gardeners’ Chronicle などに一般向けの記事を書いたりして収入を得なければならなかった。

 フッカーは自分や他人を評すとき、しばしば「哲学的かどうか」という基準を用いた。この「哲学的」という言葉の含意は、ヴィクトリア期の科学界について理解するための鍵になるので、じっくり考えてみたい。
 1868年に友人へ送った手紙のなかで、フッカーは既存の本よりも「哲学的」な、英国の植物をまとめた本を書くと述べており、これは実際にthe Student’s Flora of the British Islands (1870) として出版された。フッカーは「哲学的」という言葉で何を言わんとしたのだろうか。この本はライバルの本と比べて、イラストが無いなどお堅い雰囲気があり、分類に関しては種をまとめる傾向があり、地理的分布を強調している。これらはフッカーのいう「哲学的」の構成要素だったはずだ。
 採集の方法もまた、「哲学的」の要件であった。すぐれた採集のためには、フッカーのいう「体系の哲学」に親しんでいなければならなかった。フッカーのような大都市の分類学者は、自分に代わって世界各地で実際に採集する人々を必要としていた。こうした人々に良い採集をさせるための一つの方策は、植物学の本などの贈り物をすることだったが、そうして技量が向上した採集者たちはフッカーに対してより多くを要求してくるようになるので、厄介な問題であった。彼らはしばしば新種を自分で命名したいと要望してきたが、フッカーはこの要望に十分応えられず、摩擦を生じさせていた。
 「哲学的」の背景には、植物学の地位を向上させようとしていたフッカーらの運動も関係していた。地理的分布の法則を掴めれば、その知識は大英帝国にとって大いに役立つので、植物学の地位向上が期待された。分類の基準を厳密なものにし、採集者たちの仕事を一貫した原則に従わせることも、植物学を物理科学に引けを取らない学問にするために重要な仕事であった。
 「哲学的」の意味を理解するためにもっと重要なのは、フッカーがどうやって生計を立てていたかに注目することである。キュー植物園で常勤の職を得た後、フッカーは「アマチュア」に対して少しの優越感を見せながらも、「プロフェッショナル」であることではなく「哲学的」であることを誇りとしていた。フッカーやその同時代人が使う「プロフェッショナル」という言葉にはネガティブな意味合いがあることを見逃してはならない。
 植物学を真剣に追究している人のことを、フッカーは「プロフェッショナル」ではなく「professed」と表現していた。これは「職業(profession)」というよりも「天職(vocation)」に近い意味合いの言葉で、給料を払われているという社会経済上の地位ではなく、個人の品性(character)を表しており、真理を追究する私心のない人間という印象を与えた。「プロフェッショナル」か「アマチュア」か、という区分は、フッカーが頼みとしている植民地の採集者たちや、ジョージ・ベンサムのような重要な人物を排除することになってしまうので、避けなければならなかった。また、植物学者が自分たちを「professed」と表現するのには、実用的な薬学から植物学を切り離すねらいもあった。
「哲学的」という言葉も、「professed」と同じような役割を果たした。フッカーにとって、自らをちゃんとした分類ができない“愚か者たち”から隔てているのは、自分は哲学的であって彼らは哲学的ではないということだった。
 ヴィクトリア期の科学における「プロフェッショナル」という言葉にひとつの定義を与えるのは不可能に思える。「プロフェッショナル」と表現された人々が、空いた時間をナチュラルヒストリーに費やす法律家や医師だったということもあるのだ。
フッカーを科学の職業化という文脈に位置づけるのであれば、彼がキャリア形成のなかで用いた組織を考慮に入れる必要がある。フッカーの戦略は、自身を組織に適応させつつ、組織自体を自分の目標にかなうように作り直していくというものであった。ダーウィニズムに対するはっきりしない態度も、キュー植物園ハーバリウムの創設者という立場に由来していた。
 ヴィクトリア期は、誰がジェントルマンなのか、ジェントルマンかそうでないかを決めるのは何なのか、ということが不確定になっていった時代でもあった。都市化が進み、ある人物がジェントルマンであるか否かは不明瞭になった。そこで礼儀正しさのような品性も、ジェントルマンであることを示す上で重要となり、「哲学的」であることの一要素となった。
 「プロフェッショナル」かどうかではなく「哲学的」かどうかで人が評価されるということ、つまり収入源ではなく実践や思想や振る舞いが基準になるということは、大きく変化する社会のなかで、様々な種類の人間が自らの道を切り開くために役立った。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実のあいだに、橋渡しをしようとしていたのである。

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