2018年12月31日

伊藤圭介『泰西本草名疏』の多言語性 Fukuoka, The Premise of Fidelity, Ch. 2

Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity: Science, Visuality, and Representing the Real in Nineteenth-Century Japan (Stanford: Stanford University Press, 2012), pp. 53–78.
Ch. 2 “Ways of Conceptualizing the Real: Scripts, Names, and Materia Medica

 
 日本語の「写真」という言葉は、現代ではphotographを意味するものとなっているが、かつては少し異なった意味をもっていた。この言葉は、江戸時代後期に尾張で活動した本草学研究会の嘗百社において、表現が対象物の真に迫っていることを意味する概念として発展し、彼らの本草学研究の基本的な価値観を表すようになっていた。この本では、嘗百社が迫真性についてどう考え、どのように「写真」概念を形成してきたのかを歴史的に追うことで、認識論的な写真史を描き出したい。
 第2章では、嘗百社のメンバーであった伊藤圭介がリンネ式植物命名法を初めて日本に紹介した『泰西本草名疏』(1829)の検討を通して、本草学における翻訳の問題に目を向ける。フーコーによれば、博物学の出現は単に自然界に対する興味関心が人々に芽生えたことによって生じたのではなく、言葉と物の結びつき方に関する一つのエピステーメーの形成に深く関係していた。博物学は言語と切っても切り離せない関係にあり、それゆえに複数の異なる言語の併存に対して本草学者たちがどのように取り組んだのかという問題は本質的に重要である。日本の本草学史は、日本か西洋か、封建的か近代的か、などといった二分法的観点から探究されることが多かったが、ここでは本草学をそうした二分法を超えたところにある複層的で多言語的な知の競技場として見てみたい。
 江戸時代の本草学は、李時珍『本草綱目』(1596)の翻訳から始まった。はじめは中国の本草学がそのまま日本にも適用できることが前提とされていたが、やがてそれを疑う学者たちが現れた。貝原益軒の『大和本草』(1709)は、日本の植物相は中国と異なっているため『本草綱目』の知識はそのままでは必ずしも有効ではないという認識に立ち、自らの経験や知識によって権威ある書物の知識を疑うことを可能にした。これに触発されて、尾張では松平君山の『本草正譌』(1776)や、嘗百社の創立者である水谷豊文の『物品識名』(1809)など、尾張の植物と中国の書物のあいだにある隔たりを埋めようとする著作が続々と現れた。豊文と伊藤圭介は、本草学の知識と実践に安定した基礎を設けるため、リンネ式の分類体系を取り入れることにした。
 圭介は『泰西本草名疏』において、リンネの体系を取り入れる理由を、個々の植物の「真」を探究して患者の治療に活かすためだとしている。圭介の態度は、江戸で活動していた宇田川榕菴の『菩多尼訶経』(1822)と対照的である。榕菴は、リンネの体系に解釈や修正を加えることなくそのまま導入することを目標としていたのに対して、圭介は名称の混乱を解決する手段としてリンネの体系を用いていた。
 『泰西本草名疏』は、大部分の内容をツンベルクの『フロラ・ヤポニカ』(1784)に負っているが、形態や地域などに関する記述を削除し、ラテン語・日本語・中国語の種名だけを記載した。配列はラテン語の種名のアルファベット順であり、このことによって同属内の種の近縁性が視覚的に読み取れるようになっている。ここでは、読者はラテン語の発音や意味を知っている必要はない。圭介はラテン語名を安定した名称として用いることで、名称の混乱を解きほぐしたのである。フーコーの研究はヨーロッパに限られていたが、ここではアルファベットのラテン語名が単に視覚的記号として用いられている、より強い事例を見出すことができる。

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