2013年9月29日

地質科学における視覚言語の出現 Rudwick, The Emergence of Visual Language for Geological Science 1760–1840

Martin J. S. Rudwick, “The Emergence of Visual Language for Geological Science 1760–1840,” History of Science 14 (1976): 149–95.

1 イントロダクション
 絵や図や地図などの視覚的素材は、地質学史において実際の重要性にも関わらず軽視されてきた。このことは、科学史という学問が計算能力や言語能力を重視する教育環境において形成されてきたことと関係しているのだろう。医学史と技術史は視覚的素材を軽視しないという点で例外となっていることも、この説を裏付けている。この論文は、視覚的素材が重要な役割を果たしてきた歴史を論じることで、それらが地質学史において重視されるようになるための一助となることを目指している。
 18世紀の地質学(に相当する分野)では挿絵の使用が非常に少なかったが、1830年代にはこの状況は一変していた。地質学という学問がディシプリンとして確立したのと同じ時期に視覚言語も登場したのである。1800年前後の数十年のあいだに、アクアチント、木版画、鋼板印画、石版画などの技術が大きく発展したことが、地質学にも役割を果たしただろう。
 地図の読み方でさえも実践によって習得しなければならない技術であるように、新しい表現方法は新しい認知方法を要求する。さらに、こういった視覚的コミュニケーション方法の背後には、そのルールや慣習を暗黙のうちに承認している共同体がある。それゆえ、地質学における視覚言語の歴史的発展は、新しい科学の概念が適切に表現されるようになった過程としてだけではなく、地質科学者たちの自己意識的共同体の成長の反映としても研究する価値がある。地質学は多様な種類の視覚表現を含んでおり、科学一般における視覚コミュニケーションの発展を考える上でも有益なケース・スタディとなるだろう。


2 素材と技術
 本や記事の中に出てくる挿絵だけではなく、絵単体で流通したものなど、他にも様々な形態の視覚的素材が存在したことも忘れてはならない。そこで、18世紀の地質学の本や記事における挿絵の不足が、これらによって埋め合わされていたのかどうかという問いを立てることができる。筆者はこの問いに対する答えは否だと考えているが、今のところ推測的である。また、18世紀の「地質学者」たちは19世紀初頭の継承者と同程度の量のスケッチや図を描いていたのだろうか、という問いも立てられる。19世紀初頭の地質学者たちがフィールドスケッチを描く上でなかなかの能力を持っていたことは、当時彼らの社会階級で(特に山の景色や化石などロマンチックな対象の)絵を描くことが流行していたことと関係している。
 18世紀後半に自然史の著作の挿絵に使われたのは主に銅版画だったが、高い費用がかかったので、その使用は著者が最も重要だと考える部分に限られていた。たいていの場合唯一の挿絵は口絵であり、それは著者が本全体の要約になっていると考えるものになっていたのである。しかし、経済的な理由では説明のつかないこともある。たとえばオラス=ベネディクト・ド・ソシュールのVoyages dans les Alpes(1779-96)には挿絵が非常に少ないが、冗長に過ぎる文章を少し削れば出版費用を増やさずに挿絵を増やすことができたはずだ。18世紀末の旅行者ナチュラリストたちは、地形的な現象について視覚的認知を得ているときでも、それを殆ど言葉だけで伝えることを考えていたのではないだろうか。
 銅版画は線画には向いていたが、自然史の標本や地形を描くにはまったく不十分だった。また、ナチュラリストや画家の繊細な認知も、実際に彫刻家が彫るものの中には伝わらなかった。版画は本文とは別に刷られるため、本の最後か製本者の都合の良い場所に挿入されてしまうという問題もあった。19世紀初めに台頭するアクアチントは地形の描写に適していたが、同じ問題を抱えていた。
 それに比べて、石版画の発明は自然史科学にずっと大きな影響をもたらした。石版画は彫刻家を必要とせず、段階的な濃淡などをずっと正確に描くことができた。しかし石版画もすぐには広まらず、科学的な目的で広く使われるようになるのは1820年代になってからであった。ロンドン地質学会の紀要は、旧シリーズの最後の巻(1821)ではすべて彫刻術による挿絵が使われていたが、新シリーズの最初の巻(1824)からは大部分が石版画で刷られるようになり、彫刻術の3分の1の費用で高い品質の挿絵を載せるようになった。しかし、他の地質学研究関係の定期刊行物は依然として専ら彫刻術を使っていた。
 銅版画の銅に代えて鉄を用いる鋼板印画の貢献はこれに比べると小さかったが、彫刻術の利点を活かすことができ、少ない挿絵を安く大量に刷るのには適していた。ライエルの『地質学原理』の口絵も鋼板印画によるものだった。
 この時代の最後の技術革新は木版画の発展であった。木版画はその繊細さでは石版画に劣るものの、小さな線画などに適しており、また普通のゲラに組み込んで本文と同じページに載せることができた。木版画も普及に時間を要したが、これは地質学者たちというより出版者たちの態度の問題であったようだ。『地質学原理』の第1巻(1830)と第3巻(1833)、デ・ラ・ビーチの1831年の著作と1835年の著作を比べると、それぞれ前者に比べて後者で木版画の使用が急増しており、この頃から地質学関係の安めの本で木版画が普及していく。
 非常に重要なことに、はじめての地質学専門の定期刊行物であるロンドン地質学会の紀要は1811年の発行開始当初から、彫刻術の高い費用にも関わらず挿絵を豊富に使っていた。学会の指導的メンバーに視覚的コミュニケーションの重要性を認識していた人物が居たと考えられる。

(copper engraving=銅版画、steel engraving=鋼板印画、lithograph=石版画、wood engraving=木版画、と訳しました。石版画のみ、engravingではない。)


3 地質図
 現代の地質学に慣れた人間は見落としてしまいがちだが、地質図はとても複雑で抽象的で形式化された表現である。地質学史家たちは地質図の重要性を強調する点で正しいが、筆者はそれが視覚言語という側面から研究されるべきことを示したい。歴史に関心のあった古い世代の地質学者たちは、地質図の発明者が誰かという論争に労を費やしたが、筆者はそういった「激変説」的なヒストリオグラフィーを、もっと「斉一説」的なもので置き換えてみたい。
 かつて地図作成法の制約は、複雑で抽象的な地質学的情報のやり取りを大きく阻害していたと言える。たとえば、Carte minéralogique de la France(1780)は街や村や川の流れの情報は詳細に描けているが、地形については外形がケバ線で描かれているのみであり、これは地形を誤解させる描写方法である。この時代の地図の貧弱さは、当時の旅行者ナチュラリストたちの視覚コミュニケーションに対する態度を反映しているのだろう。
 地質図的情報が描かれた初期の地図のすべては、採鉱や実用目的の調査と関係していた。現代の地質図につながる系譜を追うなら、その出発点はAtlas et Description minéralogique de la France(1780)であろう。この地図ではスポット・シンボルを用いて、採石場や鉱床、岩石の露出部など、様々な鉱物が見つかった場所を大量に示している。これは下に横たわる基岩の一様さを示そうとしたものではないが、結果として単なる分布図には留まらなくなっている。シャルパンティエ(Johann Friedrich Wilhelm Charpentier)のMineralogische Geographie der Chursächsischen Lande(1778)はこれと同じ慣例に基づいているとみなされるべきだが、水性塗料でスポット・シンボルの散乱を補足しており、スポット・シンボルのあいだの地域の土壌や植物の下には関連する岩があるはずだという、暗黙の信念があったことを示すものである。
 キュヴィエとブロンニャールのCarte géognostique(1811)はこの慣例が発展したものとして捉えられる。スポット・シンボルは捨て去られ、地図に塗られた色は地下の三次元的構造を暗示的に指し示している。おそらくはこれと独立して、英国のウィリアム・スミスも三次元的構造を二次元の地図に描く巧妙な方法を作っていた(1815)。ロンドン地質学会の創立メンバーの一人であるジョージ・グリーノウが1920年に発表した地図は、経験主義的に過ぎたため概念的には時代遅れになっていたが、スミスの地図と共に他の地質学者たちの原資料となった。しかし、1815年以降の地図のめざましい進歩の中では、スミスではなくキュヴィエやブロンニャールに由来する慣例が使われていた。トーマス・ウェブスターが1814年から発表し始めた地図はキュヴィエの慣例に基づくもので、ウィリアム・コニベアやジョン・マカロックもこれに続いた。こうしてフランス式の慣例が英国でも採用され、地質学の標準的視覚言語として国際的に理解されるようになったのである。
 ニコラス・デマレが描いたオーベルニュの火山岩の地図(1779)は、18世紀の地図の「分布的」な意図を越えている点でユニークであった。この地図作成法上の例外は、デマレのねらい(歴史的に火山活動が相次いできたという証拠を示そうとした)が特異であったことと関係しているのだろう。19世紀初頭には、地質図や地質図断面図が可能にした新しい構造認識的な目標が、今度は因果的時間的説明によって超越されていくことになる。ここに至ってデマレの地図のような、理論的なテーマを持った地図が多く出現することになるのである。


4 地質断面図
 地質断面図も地質図と同じく、率直な観察とはかけ離れた視覚言語であり、それゆえ特定の歴史的環境で構築されなければならなかった。実際、1920年代より前の時代では地質断面図は非常に少ない。科学自体が自己意識的なディシプリンとなった時代にはじめて、地質断面図は地質学の視覚的レパートリーの標準的一部分になったのである。
 初期の断面図は二つの遠く離れた文脈で発見される。地質学的情報を持つ18世紀の断面図の殆どは、鉱物地理学の文脈で出てくる。これらは円柱型の簡単な図で、特定の場所についてのものもあれば、その地域全体の地層の順番を一般化して表現したものもある。しかしこれらはスポット・シンボルにより伝えられる情報を拡張した程度のものに過ぎない。また、初期の横に広がる断面図の殆どは、実際の採鉱の文脈から出てきたものだった。1809年以降には、褶曲や断層などの構造的複雑性を故意に省略した円柱型断面図が登場するが、これは概念的にきわめて大きな意義のある達成である。1830年までにはこういった断面図の潜在能力が認知され、異なる地域の円柱図が並列される図が出てくるに至るが、これは層序学に不可欠な相関図の起源といえる。
 もう一つの文脈は、宇宙起源論の理論を描いた図である。17世紀の例としては、ニコラウス・ステノ、アタナシウス・キルヒャーなどが図を描いている。18世紀になると、経験的な地層断面図と結び付いた宇宙起源論も出てくるようになる。たとえばジョン・ホワイトハーストのOriginal state and formation of the earth(1778)では、各地層が平行になって傾いているという理論的仮定に従い、限られた地表の証拠から推定したダービーシャーの地質断面図が描かれている。ジョン・ファレイの地質断面図もよく似ており、この二人の地質断面図は製図の影響を受けていることが覗える。ウィリアム・スミスのSections(1817-19)は同僚であったファレイとほぼ同じスタイルで描かれている。以上の英国での地質断面図の伝統が示すように、地質学の複雑な現象を解釈する構造的アプローチは、実用的な採鉱や鉱物調査といった社会的文脈において、工学的実務に関わっていた人物によっていち早くなされたことがわかる。
 しかし同様の構造的志向は、異なる文化的背景からも出現した。パリ地域の地質についてのキュヴィエとブロンニャールの業績の中にも、横断型の地質断面図が含まれていた。キュヴィエとブロンニャールの地質断面図の慣例はすぐにロンドン地質学会に採用され、メンバーたちもスミスやファレイの業績ではなく、方法論的に優れたフランスの業績を手本とするようになった。1830年代初頭までに、横断型の地質断面図は地質学の視覚言語の一部としてどこででも確立されるようになった。1830年にデ・ラ・ビーチは、地質断面図を鉛直方向に引き延ばすことの危険を指摘してもいる。
 1830年頃以降、ブロンニャール、バックランド、ライエルなどによって、様々な理論的あるいは「理想的」地質断面図が出版されていく。これらは全て横断型地質断面図の慣例を踏まえていながらも、地殻の「理想的」部分を表現し、異なる岩石間の関係やその時間的・因果的説明を描いていた。
 エリー・ド・ボーモンがRévolution de la surface du globe(1929-30)で使っている地質断面図は、水平方向が地質学的なタイムスケールも表現しており、彼の理論を説明している。地質断面図という表現方法の柔軟性を示す例といえよう。


5 風景画
 18世紀当時の「地質学」分野の本や記事の挿絵は、標本の絵を除くとほとんどが特定の地域の風景を描いたものであったが、これらは少数の例外を除くと粗雑なものであった。ここには、当時の美術的伝統の様式上の限界や、地質学的興味の対象が美術にとって馴染みの薄いものであったことが関係している。
 地形学的視覚言語の伝統の源は、社会的な地位は低い、記録資料的な地形画の伝統にあった。この伝統には、航海に付き従った画家ナチュラリストたちや、貴族の土地や大邸宅を描いたり本を売ったりして稼ぐ地形画家たち、軍の調査や航海図に付属する地形画の描き方を教えていた人々などが属していた。この伝統が地質学に果たした重要性は、19世紀初頭の地質学的業績に載せられた挿絵のいくらかから察することができる。たとえば、地質学的に有益なウィリアム・ダニエルの絵や、ロンドン地質学会の公式製図者となったトーマス・ウェブスターの絵も、当時の航海図を補足していた海岸の崖の風景画と多くの類似点を持っている。
 1820年までに、正確な風景画の地質学的使用はごく普通のことになった。記録資料的地形画の伝統の写実主義的な性格は、ロンドン地質学会の初期のメンバーたちの経験主義的理念に訴えるところがあったようだ。
 しかしどんなに無害な「記録資料的」風景画でも、ある種の理論的内容を内包することは避けられなかった。そして19世紀初頭の地質学的風景画では、それまで暗黙のうちに潜んでいた理論的内容がより明示的に表れはじめた。海岸の崖の風景画は特によく描かれていたが、構造的特徴が強調されるようになり、偶発的な特徴は単純化され、色使いも見たままの色というより、岩の種類に従った慣例的な色が使われるようになっていった。このような形式化が進んだことで、海岸の崖の風景画はときには地質断面図と見分けがつかないようなものにさえなっていた。海岸の崖の風景画は、形式化されていたとはいえ、推測的な外挿を必要とする地質断面図に比べれば直接的観察に近かった。そのため、形式化された海岸の崖の風景画は、横断型地質断面図が受け入れられ、まだ見ぬ実体の妥当な表現として信用されるようになるための概念的橋渡しの役割を果たした。
 このような地質学的地形画の慣例は、崖などを含まない普通の風景画にも拡張されていった。たとえばスクロープは、Memoir on the geology of central France(1827)で慣例的な色使いなどを用い、鮮烈な印象を与える死火山の火口や溶岩流などを描いた。スクロープはさらに地形画の慣例を抽象的で理論的な方向に発展させ、理想化された溶岩流の風景などを描き、言葉による結論を視覚的に補完した。この影響をすぐに受けたライエルは、『地質学原理』の口絵でスクロープの技術を用いている。
 しかし、このような形式化された地質学的風景画はその後あまり用いられなくなった。おそらくは、この頃には幅広い読者が、地質図や地質断面図などのさらに形式化された視覚言語を読めるようになっていたからであろう。


6 結論
 18世紀末から19世紀初頭の「地質学」的著作における挿絵の質的・量的発展は、部分的には経済的・技術的な言葉で説明可能だが、また一方では、自己意識的な新しい科学の発展と平行する、新しい種類の視覚的表現の発展を反映してもいる。宇宙論、鉱物学、自然史、採鉱など、様々な分野の伝統が総合され、知的目標と組織を得た。しかしこの複雑な歴史的過程の本質的要素は視覚言語の形成にあった。
 地質学の視覚的表現は、多様な社会的・認識的な源に由来する。それらは抽象化と形式化の中で発展し、ますます理論的な意味を持つようになっていった。筆者が作った図25は、地質学における視覚言語の相互関係と発展を表現したものだ。
 筆者が分析した視覚的コミュニケーションが言葉の形に還元できるかどうか問うことは不毛で、歴史家は新しい科学としての地質学の登場において視覚言語が決定的な特徴であったことに注意すれば十分だ。その重要性を覆い隠しているのは、科学史の非視覚的な伝統だけなのである。

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