2013年9月29日

迷子石に関する3つの説 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 34

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 501-16.


Ch.34 迷子石を説明する(1833-40)

34.1 地質学的洪水を拡張する

 洪水説も他の学説と同じように時代と共に変化してきた。1830年代には、バックランドも含め、地質学でいう洪水は聖書に出てくる洪水とは関係ないという合意が得られていた。
 この時代の洪水説は主に3種類の経験的根拠に支えられていた。1つ目の根拠は侵食の特徴で、通常の現在因によっては説明できないと思われていた。しかし、谷の地形は多種多様で、下にある岩盤の構造との関係も様々であることから、単一原因による説明を追求することは無益だという暗黙の合意が得られていた。たとえば、オーベルニュの谷は長期間の水流による侵食で形成されたのだろうと洪水論者さえもが考えていたが、一方でU字谷の形成を説明するには猛烈な河流の作用が適していると考えられていた。2つ目の根拠は巨礫粘土などの堆積の特徴であった。
 しかし、3つ目の根拠である巨大な迷子石は、以上の2つの根拠よりもずっと強烈かつ重要であった(図は81ページと184ページ)。迷子石のそばの基岩にはひっかき跡があり、平らにされたり磨かれたりしており、地質学的に新しい時期に例外的な出来事があったと考えなければこのことを説明するのは難しかった。
 20年ほど前、ジェームズ・ホールはエディンバラの迷子石を津波で説明し、フォン・ブーフはアルプスからジュラに動いた迷子石を洪水で説明した。しかしこれらの例は、1820年代に実証された、スカンディナヴィア半島の岩がバルト海やドイツの平野を越えて運ばれた例に比べれば、ずっと規模の小さいものであった。1830年代にも迷子石に関する報告が相次ぎ、推測される洪水の大きさに驚きの声があがった。
 スウェーデンの地質学者、ニルス・ガブリエル・セフストレームはブロンニャールの研究成果を拡張して、迷子石の場所とそのひっかき跡の方角を描き込んだ地図を作製し、迷子石たちのひっかき跡が特定の方角を向いていることを示した。セフストレームはこの原因を、深さ500mもあったと考えられる巨大な洪水(petridelaunic flood という言葉が用いられた)で説明した。セフストレームの論文の抜粋はドイツ語と英語に翻訳され、1838年の完全出版前にヨーロッパじゅうで知られるようになった。セフストレームはpetridelaunic floodで説明できる小さめの迷子石と、他の何らかの理由で説明されるべき大きめの迷子石を区別していた。セフストレームやフォン・ブーフは、大きな迷子石を単なる洪水で説明することの難しさを認識していたのだった。泥のような濁流の洪水を想定しても、スカンディナヴィアからバルト海を越え、バルト盆地から北ドイツの平野に押し上げられた迷子石を説明できるとは思えなかった。


34.2 迷子石と氷山

 これらの洪水説の他で唯一妥当な説は、プロイセンのナチュラリストであったヴレーデが30年ほど前に唱えた、迷子石は海水面の高い時期に流氷に埋め込まれて漂流してきたのだとする説に由来していた。しかし、地質学的に新しい時期に北ドイツの平野が海に沈んだという証拠はなかったし、長年に渡って地質学者たちは流氷や氷山の役割を軽視してきた。
 ただしライエルは違っていた。ライエルは『地質学原理』の初版で、アルプス山脈の氷河が岩を積み、それが砕けたときに堰き止められた湖の中で漂流する氷山となり、やがて堰も決壊して低地に流れ出てきたのだという説明をした。1840年の第6版では氷河に関する1章を追加して、迷子石の分布は流氷や氷山の漂流とそれに続く地殻の上昇で説明できると説き、大量の実例を挙げて自説を補強した。
 地殻は上昇したり下降したりし続けるものだと思っていたライエルにとって、海水面がかつて高かったと想定することは何の問題もなかった。岩を含んだ氷山が漂流しているという報告は多くあったので、これも現在因として扱えた。氷山が非常に長い距離を漂流するということも知っていた。ライエルは、地殻の一部がほんの少し昇降しただけでも海岸線は大きく変わるはずであり、それに伴って局所的な気候も大きく変わるので、氷山が南に大量に漂流してきた時期もあったのだと考えた。しかしライエルは、低地の迷子石だけでなくアルプス山脈の迷子石にまで同じ説明を適用したので、地殻の極めて大きな上昇を仮定することになってしまった。さらに、巨礫粘土などの表層堆積物もひとまとめにして漂積物(drift)と呼ぶべきだと提案した。
 ダーウィンはライエルの説に沿った形で、地質学的に新しい時期に、スコットランドで2200フィート(670m)以上の地殻上昇があったはずだと考えた。ダーウィンはチリで1300フィートの上昇を確認していたのでこれに納得していたが、そのような地殻上昇は他に証拠が無いため、他の地質学者たちは懐疑的であった。ライエルの説明は巨大な津波や泥流による説明に比べればまだ納得できるものの、多くの問題があると考えられていた。


34.3 巨大氷河の復元

 迷子石を説明する3つ目の説は、スイスの土木技師イグナツ・ヴェネッツによる研究に端を発する。この研究でヴェネッツはモレーンなどの堆積物の分布を観察して、アルプスの氷河の範囲は歴史的に変動してきたという結論を下し、スイスの気候や氷河に関する分野の賞を1822年に受賞した。この結論は少なくともスイスじゅうの同業者には知られるようになった。そのうちの一人である地質学者のジャン・ド・シャルパンティエは、ヴェネッツとフィールドワークを重ねるうちにこの説に納得し、後に地質学新婚旅行でやって来たライエルにこの説を話した。シャルパンティエは、迷子石は荒れ狂う大洪水で説明するには規則正しすぎると言い、氷河の突端の下では基岩が滑らかになっており、そこには氷河に含まれる岩によるひっかき跡が残っていることから、迷子石は氷河の遺物なのだと主張した。シャルパンティエは、今ある氷河から遠く離れ標高も高いローヌ谷の土地でもこのような跡を発見したため、極めて巨大な氷河がかつてこの地域を覆っていたことを想定しなければならなくなった。しかしシャルパンティエは、地球は徐々に冷却されてきたという説を当然のこととして受け入れていたため、過去の気候が今よりずっと寒かったという可能性を考えもしなかった。その代わりに、アルプスの標高が今よりずっと高かったという説を採用したため、ライエルには嘲笑されてしまった。
 1833年、ヴェネッツの論文がようやく完全な形で出版されたことでシャルパンティエの自信は強まり、翌年にシャルパンティエはヴェネッツの考えを前進させた論文を発表した。しかしスイスでの反応は薄かったので、1835年に論文をパリに送ったところ、ドイツ語と英語に翻訳されてヨーロッパじゅうの地質学者の知るところとなった。シャルパンティエは極めて広い地域がかつて巨大な氷河に覆われていたことを想定しており、にわかには信じがたいだろうが観察された証拠に基づいている、ということも本に書いている。
 シャルパンティエは消えた氷河の地史学的復元と、氷河拡大の因果的・地球物理的説明をはっきり区別しており、前者はフィールドでの証拠に、後者は推測に基づいていた。アルプスが上がったり下がったりしたことは、エリー・ド・ボーモンの説に従い、地球の冷却による地殻の急上昇とその後の陥没によって説明した。
 シャルパンティエの理論はこのように、現在因に基づく部分とそうでない部分があったが、ローヌ谷のみならずアルプスの他の地域にも適用できる潜在能力があり、今まで見つかってきた他の迷子石もシャルパンティエの理論で再解釈することができた。しかし、地質学者たちがこの説を妥当とみなすかどうかはまだわからなかった。実際、この説をたとえばスカンディナヴィアの迷子石に適用するためには、スカンディナヴィア山脈がかつてアルプスより高かったと仮定しなければならず、それは有り得そうもないことであった。現代に近い時代の地史の復元は、依然として問題のままであった。

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