2013年9月29日

『地質学原理』の完成 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 25

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 363-77.


Ch.25 ライエルの『地質学原理』の完成(1832-33)

25.1 ライエルの講義

 『原理』第二巻出版後の1832年の春、ライエルはキングス・カレッジ・ロンドンで講義コースを開き、地質学会の学者や教養ある人々が集まった。最初の無料講義は2回行われ、300人以上が出席したが、それ以降の有料講義を聴くためにお金を払ったのは70人も居なかった。
 講義は地殻の構造やそれを構成する岩石についての伝統的な要約から始まったが、「第一紀」は多くの異なる時代から成り立つ上に、地球の起源についての証拠を何も提供しないためその名に値しない、という非伝統的な主張もした。しかしライエルは、空間と時間、天文学と地質学のアナロジーを用いることで、彼が明らかに採用している永遠主義を、人知の限界の問題に縮小してその立場を無毒化した。いわく、我々にできることに比して創造の力はあまりに巨大なので、宇宙の果ては存在するが、我々はそれを観測できない。これと同じように、地球の始まりが存在しても、我々がそれを知り得ないのは自然なことである、というのである。さらに、ヒューウェルに従い、各生物種を造りだすのは惑星を造る以上の創造の力を必要としたはずで、地質学は天文学以上に神の御業の偉大さを示す学問だと述べた。このように自然神学的な物言いをすることで、彼は地質学を大学のイングランド教会的環境にとって口当たりの良いものにした。しかし一方ではセジウィックに従い、聖書の細々とした記述との整合性を取ろうとするのは馬鹿馬鹿しいとも述べた。
 この後、ライエルは残りの講義を『原理』最終巻の概略を説明するのに使った。まず現在因の原理を説明し、第三紀のヨーロッパを主な例として用いた。ライエルのシチリア島での調査は、フィールドワークが進むにつれ、未発見の“あいだの時代”が見つかっていくだろうことを示唆していた。このことは、岩層や化石の不連続性は、単に不完全な記録や不完全な知識に因るに過ぎないかもしれないことを意味している。化石記録が不連続に出現するのは、生物の変化が全世界的であるのに対し地層の堆積は局所的になされたためでもある。また、侵食は書物の焼失のように堆積物の記録を破壊する。ライエルはあらゆる種類の激変論を痛烈に批判した。
 また、ライエルはキュヴィエの逝去に触れ、彼の業績を称えると同時に、フランスの組織化された科学に対してイギリスの科学は政府の支援が欠けており、衰退しているという意見を述べた。
 デエーの研究が念頭にあるライエルは、第三紀の年代決定に最も適しているのは海棲の軟体動物の化石だという。この講義においてライエルは初めて公の場で、自らの地史の概略を明らかにする。彼は「沖積世」「新鮮新世」「古鮮新世」「中新世」「始新世」の時代区分を用いて第三紀の地史を描いた。化石が現代の世界と近いほど、時間的にも現代に近い時代だということになっており、このような枠組みは大洪水を否定する一方で歴史の連続性を肯定している。ライエルはシチリア島やエトナ山の例を出しつつ、第三紀の地史を詳述した。
 この講義コースはキングス・カレッジ・ロンドンで1833年にもう一度開かれるが、大学の女性禁止の方針などの影響や、内容が目新しさを失ったこともあって受講者は少なかった。一方、平行して行われた王立研究所での講義はより易しいレベルで行われ、多くの受講生を集めた。どちらの講義でも、宗教的な批判は起きなかった。ライエルの講義は、30年前のキュヴィエの講義がそうであったように、ライエル自身の『原理』第三巻の予告編となっていた。『原理』の二巻目までがよく売れていたことでライエルは自信をつけ、この後は収入源も自分の地質学の普及も、専ら本の著述業に頼るようになる。


25.2 大陸での幕間

 1832年の講義コースを終えたライエルは旅に出る。ドイツで結婚し、妻と共にスイス、北イタリア、フランスをめぐる旅程の中で、彼は大陸の学者たち(初めて会う人々も、既に知っている人々も)と交流し、またフィールドワークも行った。


25.3 ライエルの『原理』の最終巻

 ロンドンに戻ってきたライエル夫妻は新居を構えた。ライエルは収入源として『原理』の売上も気にしており、専門家でない一般の人々も読めるようにしておく必要があったため、最終巻には用語解説がつくことになった。
 この最終巻は1833年の春に出版されることになる(二つの並行した講義コースの前)。第二巻の口絵に描かれていたエトナ山の絵は第三巻の内容と関連しており、第三紀の地史と現代の世界との決定的なつながりを担っていた。最初の章からライエルは、激変論者たちを激しく攻撃した。現在因の使用が適切であることを実証するために、最終巻の目標は地史の再構成に絞られた。


25.4 ライエルの地史の方法

 最終巻の序盤は、地質学的出来事の並びを再構成する方法について書かれている。ライエルはここで第三紀に焦点を当て、彼の地質学の試験台としている。
 第三紀の盆地が局所的であるのに対し、第二紀の岩層は広く一体的であることをライエルは次のように説明している。最初、ヨーロッパの全域は海面下に沈んでおり、この時期の堆積物で第二紀の層はできた。その後、ヨーロッパは海面の上に出て、ときどき局所的に海面下に沈んだときに第三紀の層はできたのである。
 この連続的なモデルは次に、漸進的な絶滅と新種の導入の仮説に結び付けられる。海面下に沈んで化石が形成される時期はときどきしかやってこないので、第三紀の連続した地層が異なる動植物層の化石を含んでいることになるのである。ライエルは考古学的なアナロジーを持ち出して、激変は幻覚に過ぎないのだと力説する。
 次の2章分は地質学者たちが相対年代を決定するのに用いる基準に関して書かれている。化石も地層累重の法則も、確実に信頼できる証拠とはならない。しかし、海棲の軟体動物は貝殻の豊富さと保存されやすさ、そして広い分布のために、最も信頼できる化石だといえる。ライエルの方法は、特定の岩層に特徴的な化石に注目するスミス流の方法に異を唱えるものであったといえる。
 こうしてライエル流の地史の方法が示された今、最後に残った課題は第三紀の地史を詳細に再構成することであった。

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