2016年4月12日

非メンデル主義者メンデル Olby, “Mendel No Mendelian?”

メンデルに関する従来的な理解が覆される転機となった1979年の論文です。

Robert Olby, “Mendel No Mendelian?” History of Science 17 (1979): 53–72.


1.イントロダクション(pp. 53–62)

 この論文の目標は、メンデルに関するウィッグ史観的な解釈に代えて、19世紀中頃における生物学の文脈を意識した解釈を提案することである。従来の理解では、メンデルの論文は(遺伝学として知られる)遺伝に関する現代的理論の誕生を示す。メンデルは、ペアになったファクター(エレメント)の概念を導入することによって、分離の法則と形質の独立組合せの法則を提唱した。こうした法則が成り立つのは、生殖質の形成のあいだに分離のプロセスがあり、ペアの片方しか生殖質に入ることができないからだとメンデルは考えていたという。以上のようにメンデルのエレメントを古典遺伝学のアレルと同等のものだとみなす見方のせいで、メンデルの論文は、新種の源としての雑種に関する研究というよりも、雑種の研究によって明らかになった遺伝の法則に関する研究として捉えられてきた。1902年の時点でベイトソンは、もしメンデルの研究がダーウィンの手に渡っていたら歴史は変わっていただろうと述べていた。このような見方は、メンデルの最初の伝記を書いたフーゴー・イルチスに受け継がれた。

 本論文著者のこれまでの研究は、以下のような結論を出してきた。まず、受精についての細胞理論は、メンデル主義的理論を導かない。花粉細胞の内容物が胚珠と融合して接合子が形成されるという事実が、融合遺伝あるいは非融合遺伝を支持するわけではないからである。融合遺伝の理論は19世紀後半において広く受け入れられており、ネーゲリやヴァイスマンの議論にも表れていた。
 メンデルの理論は、ケールロイターやゲルトナーによる植物雑種研究の伝統に位置づけられる。ケールロイターは、前成説を打ち破り、植物界における有性生殖の存在を示し、「純粋」な種の一定不変性を示すために交雑を用いた。ゲルトナーも植物の性の存在と種の固定性を支持し、環境の作用で遺伝する変異が生み出されるという主張に反論したが、交雑がそのような変異を生み出すということには懐疑的であった。メンデルは、このような相反する説の対立に決着をつけるべく交雑実験を行っていた。
 著者のこうした議論は当時賛同されなかった。だが最近、進化における雑種の役割という文脈からメンデルを見ることについて、L. A. Callenderから強力な支持が得られた。Callenderによれば、メンデルは同一形質の子を産む一定不変な雑種によって新しい種が形成されるというリンネの仮説を擁護しようとしていたのである。

 コレンスは形質のペアがAnlagenのペアによって決定されるのだと考えたが、メンデルはそのような考え方をもっていなかった。J. Heimansはこのことを、メンデルが論文のなかでphaseolus multiflorusの花の色の遺伝を論じている部分と、論文で発表した結果をメンデルが再解釈しようとした手記に基づいて主張している。形質のペアというメンデルの概念は、相互に排他的なファクターのペアという概念を導いていなかったのである。


2.一定不変な形質と変異する形質(pp. 62–66)

 ではメンデルの達成とは何だったのか。Heimansによればメンデルは、分割不可能な実在としての全体論的な種のイメージに代えて、原子論的でモザイク的な種の概念を思い描き、それを実験的に示したのである。メンデルの根本的な構想は、別個の遺伝形質が独立にかつ変化することなく伝達されるということであった。ダーウィンや他の生物学者にとって、種の形質が分割不可能な実在であり、環境条件の影響によって可塑的に様々な方向性に変化するものだったのとは違っていた。

 メンデルが優性だとか潜在している(latent)とか一定不変だとか変異するとか言っていたのはあくまで形質のことであって、ファクターやエレメントのことではなかった。またメンデルは、生殖細胞形成の際の分離について、異なるエレメントだけがお互いに排他的なのだと書いている(もしそうだとすると、同類のエレメントの数は受精のたびに増えることになってしまう)。これは古典的なメンデル遺伝学と矛盾する記述であり、もしメンデルが対立する形質のペアを決定するエレメントのペアという概念をもっていたのであれば、同類のエレメントのあいだでの分離も認めていたはずである。メンデルが関心をもっていたのは、物質的なエレメントそれ自体ではなく数学的な法則性のほうであった。


結論(pp. 67–68)

(1) メンデルにとって最大の関心は、新種の誕生に際して雑種が果たす役割であった。雑種は変異するのか一定不変なのか? もし一定不変ならばそれは新種の誕生における第一段階となるのか? 遺伝の法則については、進化における雑種の役割についての分析に関係する限りでの関心をもっていたに過ぎない。

(2) メンデルは、対立する形質のペアを決定するファクターやエレメントのペアという概念をもっていなかった。Heimansが分析したように、メンデルはエレメントと形質のあいだに一対一の関係を想定していたわけではない。あくまで、エレメントの種類と形質のあいだに関係を想定していたにすぎない。

(3) メンデルは受精についての細胞理論を、一定不変で独立した形質があらゆる可能な組合せで組み合わさるという仮説を支持するために用いていた。細胞理論は、遺伝の決定子についての細胞学的理論の土台を提供しているわけではなかった。一定不変な雑種と、変異性をもつ雑種があることを説明するための概念的枠組みだったのである。

 以上のことを踏まえれば、メンデルの論文が長いあいだ無視されていたというのは偽の問題にすぎないことがわかる。ダーウィンとメンデルのあいだで接触があれば19世紀に総合がなされていただろうという想像も間違っている。ダーウィンの概念的図式のなかに、一定不変な形質という要素はほぼなかったし、進化における交雑の役割についての見方もメンデルからは遠く隔たっていた。

 もしメンデル主義者を、限られた数の遺伝要素(最も単純なケースでは一つの遺伝形質につき二つ)が存在し、そのうち一つだけが生殖細胞に入ることに同意する人として定義するならば、メンデルは明らかにメンデル主義者ではないのである。


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