2016年7月8日

遺伝暗号解読、突破の局面 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第6章中盤

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 256–277.


● 「情報高分子」:文字、言葉、ナンセンス

【256-1】暗号解読問題が袋小路を突破したことで、それをめぐる競争は激しくなり、ニーレンバーグは少なくとも6つほどの他のグループと競合することになった。特に1961年の夏に、20人ほどの研究者を擁するセベロ・オチョアの研究室が全力で解読問題に取り組むと発表したことは、ニーレンバーグを動揺させた。オチョアは、ちょうど2年前にRNAの酵素合成研究でノーベル賞を受賞しており、NIHのグループと競合する必要はないように思われた。しかし、実はオチョアらもこれまでにタンパク質合成の研究を進めていたのであり、ニーレンバーグとマタイの報告を聞く前に、彼らと同様の実験を計画していたようである。

【257-1】オチョアはスペインの出身で、1929年にマドリード大学で医学の学位をとったあと、カイザー・ヴィルヘルム研究所のオットー・マイヤーホフのもとでポスドクとして生化学の研究をした。その後はマドリード大学で講師を務めたが、スペイン内戦が勃発したため、ドイツ、英国を経て米国に落ち着いた。1942年からはニューヨーク大学の医学部に移り、1954年には学科長に就任した。オチョアの研究は1960年頃まで、伝統的な代謝生化学の枠組みに収まっており、遺伝学的な概念や情報伝達のモデルとは無縁であった。

【259-1】1954年、パリからオチョアの研究室に来ていた生化学者Grunberg-Managoが、4種類の塩基のうち1種類しか含まないRNAのような産物を試験管内で生み出す酵素を特定した。ポリヌクレオチドホスホリラーゼと命名されたこの酵素は、生体内においてはRNAの合成に関わらないことが判明したが、生化学にとって重要な道具となった。

【259-2】オチョアは(少なくとも回想的には)、この酵素が遺伝暗号問題解決のための鍵だったと考えた。メッセンジャーRNAという新しい概念は、無細胞系で合成ポリヌクレオチド(人工的に合成されたヌクレオチド)をメッセンジャーとして使うことで遺伝暗号解読につなげる実験の可能性を示唆していたが、研究に取り掛かった頃にニーレンバーグに先を越された。

【260-1】1961年の10月、オチョアはLengyel、Speyerと共著で「合成ポリヌクレオチドとアミノ酸暗号」と題してシリーズ化された論文の第一弾を米国科学アカデミー紀要(PNAS)に投稿した。この論文では、ニーレンバーグとマタイの研究結果を確認した上で、大腸菌のトランスファーRNAを追加することでフェニルアラニンがタンパク質により多く取り込まれることが示された。この事実は、合成ポリヌクレオチドとメッセンジャーRNAは交換可能であることの保証になった。 さらにオチョアのグループは、(poly-Uの場合はフェニルアラニンだけが取り込まれるのに対して)poly-UCのようなポリヌクレオチドはフェニルアラニン、セリン、ロイシンを、poly-UAはフェニルアラニンとチロシンを、ポリペプチドに取り込むことを示した(図33)。

【260-2】オチョアらはライバルの存在を強く意識しており、論文は先取権を強調する調子で書かれていた。論文の注釈には、poly-UGやpoly-UACによって取り込まれるアミノ酸の種類が挙げられ、その結果は次の論文で報告することまでが予告されていた。

【261-1】3週間後に発表された第二弾では、poly-UC、poly-UA、poly-UG、poly-UAC、poly-UCG、poly-UAG(もちろん、これらを構成するヌクレオチドの順番はわかっておらず、ただ組成だけがわかっている)によって取り込まれるアミノ酸の種類が報告された。これらの結果によって、オチョアらは11種類のアミノ酸について、それぞれに対応する3文字の構成(順番まではわからない)を示した。たとえばシステインは「2U 1G」、ヒスチジンは「1U 1A 1C」、といった具合である(図34)。

【262-1】NIHでは、Gordon TomkinsやLeon Heppelのグループもニーレンバーグに協力し、団結して24時間体制での研究が進められていた。ニーレンバーグらの論文はオチョアらに3日遅れて1962年[1961年では?]11月24日に投稿されたが、オチョアらの論文に比べてずっと厳密な検証がなされていた。

【262-2】成果をより早く発表するために、12月4日にニーレンバーグのグループは[研究成果の迅速な普及を目標とする]Biochemical and Biophysical Research Communications誌に「遺伝暗号のリボヌクレオチド組成」と題した論文を投稿し、15のアミノ酸に対応する「遺伝暗号」を報告した(図35)。ここで彼らは他の人々と同様、このイディオムに固有の言語学的スリップに巻き込まれてしまう。「遺伝暗号」とは、アミノ酸によるタンパク質の暗号なのか、塩基によるDNA(RNA)の暗号なのか、両者の相関関係としての暗号なのか?

【262-3】この論文は、言説的・認識的転回において注目すべきものであり、生化学的表象から聖書的表象への移行を示している。ニーレンバーグたちは、ヌクレオチドを「遺伝暗号の文字」として、アミノ酸を「暗号の言葉」として再定義した。彼らはさらに、「暗号は理論的に仮定されたトリプレットで成り立っているのか」という未解決の問題の解決に乗り出した。

【263-1】ニーレンバーグたちは、シングレットとダブレットの可能性を否定し、トリプレットもしくはそれ以上であると考えた。彼らの用いる用語は、生化学で生まれたものではなく、Henry QuastlerやRNAタイクラブによって50年代に分子生物学に持ち込まれたものであった。

【263-2】明らかに、1961年の秋にニーレンバーグは、暗号に対する理論的アプローチの文献を読んでいる。特に先述の論文では、イチャスが1958年に発表した「タンパク質のテクスト」という記事が参照されている。この記事では、ヌクレオチドの配列がテクストを暗号化しているという見方や、イチャスやガモフ、クリックが検討していた暗号が説明されていた。

【264-1】こうした聖書的表象は、ニーレンバーグにとって単に修辞的な見せかけの役割を果たしたのではなく、実験の実践を形づくる概念的構造を形成していた。このことは、1961年秋におけるニーレンバーグの日誌からよくわかる。

【265-1】12月20日までに、オチョアのグループはニーレンバーグのグループにほとんど追いついた。対応する暗号が不明なままのアミノ酸はアラニン、アスパラギン酸、アスパラギン、グルタミン酸、グルタミン、メチオニンの6種類に絞られた。またこの日、「米国の研究者たちによって『遺伝暗号』が部分的に破られた」と題された記事がニューヨーク・タイムズに掲載された。この記事の掲載以降、遺伝暗号に関する報道が相次ぐようになった。

【266-1】12月30日には、クリック、Leslie Barnett、シドニー・ブレナー、R. J. Watts-Tobinによる「タンパク質の遺伝暗号の一般的性質」という記事がNature誌に掲載された。これは、バクテリオファージT4システムのrII領域にあるB遺伝子の研究を押し進めたものであった[177ページ参照]。

【266-2】この記事でクリックらは、遺伝暗号は3つ組の塩基の集まりであること、暗号は重複しないこと(図36)、塩基配列は定められた開始地点から読まれること(特別な「コンマ」は無い)、暗号は「縮退」するということ、を主張した。

【266-3】暗号の重複がないことは、タバコモザイクウイルスの亜硝酸変異体に関する次田晧とフレンケル=コンラートの研究によって示された。重複3つ組コードの場合であれば1塩基の置換で3つのアミノ酸が変化するはずだが、亜硝酸で処理した際に1つのアミノ酸しか変化しなかったのである。暗号が重複しないならばどのように正しい3つ組を選んでいるのかという問題について、クリックはかつてコンマフリーの暗号を考案したが、今や定まった開始地点があるというイチャスの古い解決法に戻ってきていた。

【267-1】クリックらは、どうして以上のような結論に至ったのか。彼らは、シーモア・ベンザーがつくったrII領域の遺伝子マッピングを活用した実験を行っていた。アクリジンで処理したバクテリオファージ(FC O変異体)は、塩基が一つ減って(もしくは一つ増えて)おり、大腸菌K株のもとでは生息できない(大腸菌B株のもとでは生息できる)。しかし、べつの「抑制」変異を起こせば、野生型のようにK株でもB株でも生息できるようになる。しかし抑制変異だけを起こした抑制変異体は、K株のもとで生息できない。つまり、もしFC O変異が塩基の欠失(-)であるとすれば、抑制変異は塩基の挿入(+)である(もしくはその逆である)。しかし、2つの-(もしくは2つの+)が揃った変異体はK株で生息できない。

【267-2】クリックのグループは、この遺伝子領域における約80の独立した変異体を用いた。それはすべて、FC O変異の抑制変異か、抑制変異の抑制変異か、抑制変異の抑制変異の抑制変異であった。複雑な遺伝的組換えの手法を用いて、クリックらは3つの-(もしくは3つの+)が揃った変異体をつくり、その遺伝子が機能していることを示した。このことからクリックらは、塩基の挿入もしくは欠失が「読み枠」の移動を引き起こしていると推論し、暗号は3つ組だと結論づけられたのである(図37)。

【268-1】クリックらの記事は、ニーレンバーグとマタイによる発見や、その後のニーレンバーグのグループやオチョアのグループによる研究をほとんど無視していた。クリックらケンブリッジ大学のグループをはじめとして分子遺伝学者たちは、生化学者たちによる符号化問題の乗っ取りに苛立っていた。彼らは生化学に触れずに、言い換えればブラックボックスを開けることなく、演繹的推論の力によって暗号を破ろうとしていた。これは、40年代にデルブリュックのファージグループから始まった文化だといえる。

【269-1】ニーレンバーグのグループやオチョアのグループが暗号を切り崩しはじめたことは、理論的な論文群に騒動を巻き起こした。NIHのRichard V. Eckは、重複コードのアイデアを蘇らせようとした。

【270-1】ニーレンバーグの相談にも乗っていたリボソームの専門家、リチャード・ロバーツは、すべての「言葉」に共通するウラシルを捨てることでトリプレットはダブレットにできると主張した。

【270-2】ゼネラル・エレクトリックの研究所に居たカール・ウーズは、わかっている事実の全てを包含する理論を築けるはずだと考え、縮退する暗号の枠組みを提唱した。

【270-3】ニーレンバーグは、どの暗号もウラシルを含んでいるという謎に向き合っていた。ニーレンバーグの新しい実験では、ウラシルを含まない暗号が発見された。しかし、ほとんど全てのアミノ酸が2つだけの塩基を含むポリヌクレオチドによって合成されたため、ロバーツの議論を支持することになった。

【271-1】1962年末にクリックはノーベル賞を受賞した。クリックは「遺伝暗号について」と題した受賞講演を行い、暗号単位における塩基の順序や、暗号単位のサイズ(トリプレットかダブレットか)、暗号を「読む」様式、暗号の普遍性、などの残された問題について論じた。クリックは、このときもなお暗号解読の指揮を執っていた。

【271-2】クリックは、「符号化問題における最近の興奮」と題したレビューで、暗号単位に「コドン」という名前をつけた(この言葉は実際にはブレナーがつくったようだ)。

【272-1】クリックは、ニーレンバーグとマタイの発見が符号化問題に対する生化学的アプローチに革命を起こしたことを認めたが、それでもニーレンバーグらやオチョアらの研究に対して批判的であった。クリックは理論的な仕事が暗号プロジェクトにとって不可欠だと考えていたが、悪い理論化が多いことを悲しんでいた。

【272-2】未解決とはいえ、符号化問題とその聖書的・情報的表象はタンパク質合成研究の概念的枠組みと物質的実践を再設定していた。生化学と分子生物学は、どちらも情報科学の分野とみなされるようになるにつれて、両者のあいだで融合が進んだ。ノーベル賞受賞者の生理学者セント=ジェルジ・アルベルトを祝うシンポジウムにおいて、オチョアはRNA合成の研究を情報の言葉で再構成した(3年前にはそれを代謝生化学のパラダイムのもとで進めていた)。

【273-1】シンポジウムでは、続けて生物物理学者John R. Plattが「遺伝情報の本のモデル――細胞と組織における伝達」と題した報告を行い、聖書的なアナロジーをさらに押し進めた。「生命の本」という隠喩は、生化学的な写本、印刷されたマニュアル、電子的なテクストを同時に想像させるものであった。

【274-1】生化学者たちが情報言説に移行したことは、1962年秋に225人の生命科学者が集まった「情報高分子についてのシンポジウム」でも目立っていた。かつて生化学と他の生命諸科学をつなげる主題であった化学的特異性は、情報伝達によって取って代わられた。

【274-2】生化学者であり生化学史家でもあるJoseph Frutonは、情報理論のメタファーが重要な発見を刺激してきたことを認めつつも、生化学における情報理論の重要性には疑問を呈してきた。だが、情報言説は分子生物学の原理のまわりに生化学を再構成したのである。

【275-1】同様に重要な言説的転回は、1962年末に開催された、生物学における情報についての国際会議にあらわれていた。この会議の目的は、情報に関わる生物学の様々な分野の研究者たちを一堂に集めることだとされていた。情報言説は、多様な解釈を許容する形式でモデルを生み出す隠喩として機能し、他の生命科学や社会科学の分野とコミュニティをつなげる役割を果たしていた。

【275-2】ニューヨーク・タイムズは、関連する研究成果を追いかけ解釈することによって、このような文化的つながりのなかで重要な機能を果たしていた。1962年1月の記事では、生物学が原子爆弾・水素爆弾よりもずっと重要な革命のときを迎えていると論じた。同時に、その知識が誤った形で用いられたときの危険性についても警鐘を鳴らした。

【276-1】ニューヨーク・タイムズはべつの記事において、遺伝暗号の研究が驚くべき速さで進んでいることに注目し、遺伝の秘密は今年中に解かれるだろうと書いた。またべつの記事では、遺伝暗号はすべての生物に普遍的であると書いた。

【276-2】普遍性が本当であれば、遺伝暗号は物理学の特権であった自然の普遍法則になる。そしてそれは、微生物で得られた研究成果が人間にも適用されることを意味する。だが、コドンの配列を決定し暗号の単位がトリプレットであることを生化学的に確かめるには、まだ時間が必要であった。2年間の静けさのあと、1963年から67年にかけて、Har Gobind Khoranaによって開発されたトリヌクレオチド合成法と、Lederとニーレンバーグによって考案された、トリヌクレオチドをリボソームに結合させる方法によって、辞書が決定されることになる。さらに、ブレナーらによってナンセンスコドンの終止コドンとしての機能が見つけられ、ニーレンバーグが暗号の普遍性を示すのである。

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