2016年7月20日

新しいメンデル理解に関するメモ

山下孝介『メンデリズムの基礎――メンデルの<植物雑種に関する実験>ほか』裳華房、1972年。
Robert Olby, “Mendel No Mendelian?” History of Science 17 (1979): 53–72.
L. A. Callender, “Gregor Mendel: An Opponent of Descent with Modification” History of Science 26 (1988): 41–75.
Randy Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work” Bioscene 27 (2001): 13–24.


【1】メンデルに関する従来的理解

たとえば、平凡社『百科事典マイペディア』では、「メンデル」の項目は以下のように記述されている。

遺伝学の基礎を築いたオーストリアの生物学者。ブリュンの修道院の司祭や実科学校の代用 教員をするかたわら,修道院の庭でエンドウの遺伝を研究。遺伝現象の法則性と,形質を子孫に伝える遺伝物質の存在を明らかにした,いわゆるメンデルの法則を1865年に発表したが,その真価は1900年まで世に認められなかった。(1822-1884)

このように一般的な説では、メンデルは以下のような人物だったと考えられている。
・ エンドウの遺伝を研究した。
・ 「メンデルの法則」(優性の法則、分離の法則、独立の法則)を発表した。
・ 遺伝物質の存在を明らかにした。
・ 以上の業績によって遺伝学の基礎を築いた。
・ ただし、1900年までその業績は無視されていた(great neglect)。

しかしここ数十年のあいだに、こうした見方に意義を唱えたオルビー(1979)やカレンダー(1988)などの説が有力視されるようになった。現在のメンデル研究では、上の5点はどれも正しくないか、少なくとも適切とはいえないと考えるのが普通になっている。


【2】オルビー「非メンデル主義者・メンデル」(1979)

1.
メンデルにとって最大の関心は、新種の誕生に際して雑種が果たす役割であった。雑種は変異するのかコンスタントなのか? もしコンスタントならばそれは新種の誕生における第一段階となるのか? 遺伝の法則については、進化における雑種の役割についての分析に関係する限りでの関心をもっていたに過ぎない。

2.
メンデルは、対立する形質のペアを決定するエレメント(あるいはファクター)のペアという観念をもっていなかった。Heimansが指摘したとおりで、メンデルは一つのエレメントが一つの形質に対応するという関係を想定していたわけではない。遺伝学における対立遺伝子に相当するような遺伝粒子は想定されていなかった。あくまで、エレメントの一つの種類と一つの形質のあいだに関係を想定していたにすぎない。

・ メンデルは「生殖細胞の形成に際しては[中略]、相違のエレメントだけは相反する側へ分離される(it is only the differentiating ones which mutually separate themselves)」[山下訳では81頁] と書いている。もし本当にそうなら、同類のエレメントは受精のたびに増えてしまうわけで、これはメンデル遺伝学に反している。同類のエレメントのあいだでの分離を認めていなかったということは、メンデルは、限られた数の遺伝要素という観念をもっていなかったのである。

3.
メンデルの論文では受精についての細胞理論(cell theory of fertilization 花粉細胞の内容物が卵細胞と融合して接合子が形成される)が登場するが、メンデルはこれを、コンスタントな雑種と変異性をもつ雑種があることを説明するための概念的枠組みとして用いていたのであって、遺伝の決定子についての細胞学的理論の土台として用いているわけではなかった[山下訳では80–81頁] 。

・ もしメンデル主義者を、限られた数の遺伝要素(最も単純なケースでは一つの遺伝形質につき二つ)が存在し、そのうち一つだけが生殖細胞に入ることに同意する人として定義するならば、メンデルは明らかにメンデル主義者ではない。


【3】カレンダー「グレゴール・メンデル――変化を伴う由来に対する反対者」(1988)

1.
通説に反して、メンデルは「分離の法則」を明確にしていない。

2.
通説に反して、メンデルは種の一般的固定性を受け入れていたが[山下訳では88頁?] 、限られた数の場合においてコンスタントな雑種の形成によって新種が生まれることを認めていた。

3.
通説に反して、メンデルがエンドウの後に行ったHieracium(ヤナギタンポポ属)の実験は、エンドウでの実験結果を確かめようとしたものではなかった。メンデルは実際には、コンスタントな雑種形態の存在を実証して、それらが新種の形成に果たす役割を示そうとしていた。

・ メンデルは「雑種の展開における根本的な差異は、種々の細胞エレメントの永久的または一時的な結合にあるとする試み」 [山下訳では82頁]と述べているように、変異する雑種では分離が起きるが、コンスタントな雑種では分離が起きないと考えていた。この区別こそがメンデルにとって重要だった。

4.
メンデルの思想は、洗練された形式の個別創造説であった。すなわち、マルサス的な生存闘争の概念と、リンネが提唱した個別創造説の修正版を組み合わせ、かつ創造主に対する言及を排除したものだった。これは、自然選択による変化を伴う由来としての進化の観念と対立する。

5.
Great Neglectは科学史家がつくりだしたものでしかない。メンデルは変化を伴う由来に対して反対していたし、ときどき他の論者の議論を間違って解釈していたので、当時真剣に議論されるほどの理論とはみなされなかったのである。


【4】ムーア「メンデルの業績の“再発見”」(2001)

メンデルの研究はなぜ発表当時注目されず、1900年以降になって重要な業績とみなされるようになったのか?

1.
メンデルの研究は当時の文脈において、革命的なものではなくむしろ典型的なものとして理解されていた。
・ メンデルの論文は、種形成や交雑に関する研究であって、遺伝についての研究ではなかった。
・ メンデルの論文は、今では有名な9:3:3:1の比率について言及していない。
・ メンデルの論文は、分離の法則などの「メンデルの法則」をはっきり述べてはいない。
・ メンデルが粒子的な決定子の概念をもっていたという証拠はない。

2.
メンデルの研究が有名になったのは、「再発見者」たちの先取権論争のせいである。
・ コレンスはド・フリースの論文を読んだときに、メンデルによる3:1の分離比の発見をド・フリースが隠そうとしているのだと感じた。そこでコレンスは、ド・フリースに発見の権利を譲ることを嫌い、メンデルを真の発見者として持ち上げる論文を急いで書いたのである。



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