2014年2月17日

「総合」のヒストリオグラフィー批判 Cain, “Rethinking the Synthesis Period in Evolutionary Studies”

Joe Cain, “Rethinking the Synthesis Period in Evolutionary Studies,” Journal of the History of Biology 42 (2009): 621-48.

 「進化論の総合」という単位概念を放棄することを提案し、代わりに4つの筋道で1930年代の進化研究を捉え直そうとする論考です。種と種分化の問題の重要性、そしてその問題と関連した潮流があったことが強調されています。

 半世紀にわたって、「進化論の総合」という概念は非常に役立つものでした。その概念はHuxleyをはじめとしたいわゆる総合説の建設者たちにとっても、体系学者たちにとっても評論家にとっても有用なものでした。
 しかし、「総合」のヒストリオグラフィーを、この物語を用いてきた沢山の使用例から切り離すことは今までできませんでした。たとえばHuxleyやMayrの使用例があります。Huxleyの「ダーウィニズムの失墜」の物語は意図的にウィッグ史観であり、Huxleyの役割を正当化していました。Mayrの歴史研究は、彼自身の科学的遺産の再発見と合理化を行うものでした。
 現代の「総合」のヒストリオグラフィーは2つの想定に基づいています。1つ目はhistorical realismです。歴史家たちは、「総合」という出来事があったことを前提として調査を行います。「総合」の定義に焦点を当て、中心的要素を特定し、縁を突き止め、年表を追います。また、誰が「総合」に貢献したか、どうして他の人よりも貢献したかを検討します。そして、何らかの要素が除外されていることや、要素が間違って理解されたり重み付けられたりしていることを批判します。総合についてひとつの統一された意味を与えるために努力するのです。しかも永続的な理論の建設に注目していて、ただ一つの進化理論、ただひとつの「進化論の総合」がそこにあるかのようです。2つ目は、結合することには意味がある、という想定です。歴史家たちは、内的・外的な様々な変数を、あるはずの「総合」という出来事に関連付けるために努力します。「古生物学と進化論の総合」「ロシアと進化論の総合」といったように、部分と全体の関係に焦点を当てます。このような結合には意味がありません。この類の分析は、それぞれの対象は結合されるべきだという首尾一貫性を前提としています。「進化論の総合」を単一の、まとまった、首尾一貫した事柄として押し付けているのです。
 「総合」の物語は、散乱し矛盾する歴史を綺麗なラインで置き換えるので多くの人々にとって有用でありました。しかし歴史研究の際には障害にもなります。
 「総合」の物語よりも、4つの筋道によって当時の進化研究はより良く捉えられます。
① 種の本質と種分化プロセスは、1930年代の進化研究において支配的な主題でした。
② 種や種分化の調査は「変異」「分岐」「隔離」「選択」の4つのラインで発展しました。そしてこれらの問題複合体に焦点を当てた「総合」が求められました。
③ 種問題や種分化プロセスの研究における自信の高まりは、実験分類学に関連した方法論的・認識論的変化と同時に起きました。
④ 1930年代における種問題と種分化への関心の高まりは、より大きな風潮、特にオブジェクトベースのナチュラリスト的ディシプリンからプロセスベースの生物学への移行と結びついていました。総合の推進者たちはこのより大きな風潮を支持していました。

 例として、Alfred Kinseyというカリバチの分類学者を検討してみましょう。彼の仕事は昔ながらの分類学の仕事でしたが、三名法を用いていました。三番目の名前は変種(亜種、品種)を表します。Kinseyの三名法には、分岐や隔離についての物語が埋め込まれていました。また、学名命名にあたっては実験的方法を熱心に用いており、染色体の数を数えたり、構造を比較したりもしていました。Kinseyは「総合」と関連付けられるべき種類の進化研究を1930年代にしていた人物の一人であり、new systematicsを実践していた人物といえます。

 new systematicsという言葉は当時の動物学と植物学における3つの異なる流行に当てはまります。1つ目の流行は実験分類学で、認識論的文化の移行として理解できます。移行の一つ目の層は、分類学における新しい基準(染色体数、比較血清学、比較生化学、行動学、生態学、生理学、雑種形成実験など)の登場です。二つ目の層は、分類における間違いを防ぐ方法(大量のサンプルを用いること、地理的に広くサンプルを用いること、仮説検定など)の採用です。
 1930年代の新しい技術の登場は実験分類学を助けていました。たとえばPainter(1934)のショウジョウバエの唾液腺染色体で横縞模様を明らかにする技術は、すぐにSturtevantとDobzhanskyによって、フィールドで集めたショウジョウバエに用いられました。Blackeslee(1937)がクロヒチンの染色体数に対する影響を発表すると、すぐに農学者や園芸家たちが新しい変種を生産し、分類学者たちも実験に用いました。実験分類学の道具は、種内や属内の変異の性質について問う人々にとって有用になり、1920年代から30年代にかけて、植物学者はこれらの適用を動物学者より大規模にかつ速く進めました。
 生物学的種概念は実験分類学の新しい認識論的要求(客観性や検証)に対する返答の例です。後に総合として記憶されることになる動きの中での実験分類学の重要性を低く見積もることはできません。歴史家たちは総合の理論的要素(自然選択、メンデル遺伝学など)の融合に焦点を当てていますが、当時の研究者たちは古典的分類学の技術と実験分類学の技術の総合を祝福していました。

 new systematicsの2つ目の流行は種問題で、1930年代のたくさんの植物学者と動物学者が議論と貢献を熱望していた問題でした。種問題は古い問題ですが、1920年代と1930年代には難しいモデルケースが増えていました。Rassenkreisまたはring species、clines、super species、species complexesなど用語も増えました。1930年代の種問題には多くの貢献者がいました。
 1941年にAlfred Emersonは種分化に関する文献のビブリオグラフィーを出版しています。Emersonの分類は1930年代後半の種分化研究における関心の幅をよく捉え、4つの問題「変異」「分岐」「隔離」「選択」に凝縮していました。歴史家はこの幅をよく忘れ、選択と浮動や選択と結び付いた遺伝学に焦点を当てがちです。
 1930年代後半では、調査が「総合」の重要な側面であり、master narrativeやパラダイムはありませんでした。この時期、調査は幅広い領域でなされ、トピックの選択を制限する要素は少なかったので、研究者たちは非競争的な環境の中で、自分たちが同じ考え方をもっているとみなしやすい状況にありました。彼らはディシプリンを越え、共通のプロジェクトに取り組んでいるという意識を高めていきました。1930年代後半までに、彼らは何かを解いたという感覚を得ました。この自信は、プロジェクト全体に正当性のムードをつくりだします。1939年には、the Society for the Study of Speciationも始まりました。1930年代に進化研究が復興したのは、特に種分化の動力学においてでした。

 1930年代の「総合」の3つ目の面は、生命科学のより大きな潮流、すなわち、物体からプロセスへ注意の対象が移行したことに結び付いていました。たとえばKinseyも現象の理由や原因を探求することを重視しており、彼の分類は分岐や隔離や適応による物語を形成していました。彼の進化のプロセスに対する興味は、プロセスや原因、メカニズムに焦点を当てた彼の生物学者としてのアイデンティティと関係していたのです。また1930年代、Huxleyは進化研究においても生命科学全体においても、物体からプロセスへ研究対象を移行させることを唱えました。
 1930年代に進化研究に関心をもつ研究者たちが物体からプロセスに移行した理由は明らかではありません。より正確にいえば、研究者たちはこの移行を幾度となく追求してきていましたが、このときだけ広く共鳴し根付いた理由が明らかではないのです。しかし、同様の移行が生態学、動物行動学、発生生物学など広い領域で同じ時期にあったことは偶然ではないでしょう。

 「総合」についての物語は再考を要します。1940年代のストーリーは計画的なディシプリンの建設であり、特定のテーマと特定の人々の優越でした。しかし1930年代は異なっており、この10年間では「総合」は複数の意味の層をもっていました。調査のメイントピックは自然選択の復活や数理集団遺伝学の台頭ではなく、種分化の問題だったのです。

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