2014年2月19日

植物進化生物学が誕生するまで Smocovitis, “Botany and the Evolutionary Synthesis, 1920–1950”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Botany and the Evolutionary Synthesis, 1920–1950,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 313–21.

植物学と進化論の総合に関する歴史の概説です。


Darwin’s Botanical Work

 ダーウィンの植物学的業績は膨大であったが、20世紀の後半に至るまで十分に評価・理解されていなかった。ダーウィンの研究が分類学的な正確さや、19世紀の植物学における実験的な厳密さを欠いていたことはこのことの原因の一部であった。20世紀中頃に植物進化生物学と呼べる分野が出現し、さらに20世紀後半に植物生態学、植物集団生物学、植物進化生態学といった分野が成熟してようやくダーウィンの植物学的貢献は評価された。

 植物自体の側に、植物進化についての首尾一貫した理論を定式化する試みを妨げる原因があったのは間違いない。植物は頻繁に雑種形成をするので交配実験に向いており、種分化のメカニズムの理解につながるが、雑種形成それ自体が遺伝学的に適切に理解されるまでは植物進化を理解する上での問題が残ってしまう。自家受精と他家受精、無性生殖などの様々な生殖手段と雑種形成が遺伝学的な術語で理解されるまで、それらは進化研究に有用であると同時に混乱の元であった。それに環境に適応して形を変える可塑性、化石化される部位が少なく系統発生史を復元するのが難しいことなども植物進化の研究を難しくしていた。それゆえ、ダーウィンの努力にも関わらず植物学者の大部分はネオラマルキズムを唱え、あるいは雑種形成による進化や、ド・フリースの突然変異説などを支持した。


Plants, Post-Darwinian Developments and the Rise of Mendelian Genetics

「進化論の総合」と呼ばれる1930~40年代にいたるまで、植物進化生物学は十分に発展しなかった。総合の時期にダーウィン的な進化の理解はメンデル遺伝学と統合され、生物学的多様性の起源が説明できるようになった。ダーウィンが必要としていた遺伝の理論は、メンデルが提供していた。メンデルの業績は1900年に3人の研究者によって「再発見」された。「遺伝学」を提唱したベートソンはメンデルをそのディシプリンを築いた人物とみなした。

 世紀の変わり目は、生物学者たちが植物に注目し植物科学が飛躍的に発展した時期であった。遺伝学の発展は、概念的にも組織的にも、園芸や植物の育種、植物の雑種形成、植物遺伝学と結び付いていた。大学や機関の環境で農業や園芸に重点が置かれていることを活かし、植物遺伝学は20世紀最初の2~30年間で大きく拡大した。

 しかし当初、そこで生まれた豊富なデータは、ダーウィンの漸進的な進化の理論と正反対とは言わないまでも、混乱を生むものであった。それゆえ、植物研究者の中にはド・フリースの突然変異説を支持する者もいた。オオマツヨイグサの形態的変化にヒントを得たド・フリースが1901年から1903年に発展させた説では、新種は突然の激烈な突然変異によって出現する。そこでは自然選択には除去の役割しかなく、創造的な役割をもつのは突然変異である。古い自然史的伝統の流れを汲む記述的なダーウィニズムに対し、突然変異説は実験的で、よりハードな科学であって前途有望であるように思われた。20世紀の最初の20年間には、オオマツヨイグサの特殊な振る舞いに刺激を受け、植物の染色体の振る舞いを研究し、雑種形成のプロセスを明らかにしようと交配実験を重ねる研究者が多かった。しかし1917年から1922年のあいだまで、植物遺伝学者たちはその植物が永続的な転座異型接合体であることを実証できなかった。

 マツヨイグサの謎は解決に時間がかかり、多くの研究者たちをダーウィンの自然選択説に反対させた。それゆえマイアやダーリントンやステビンズは、このことが植物進化を正しく理解するための障害になったのだと示唆した。しかしこの見方は間違えであって、交配や雑種形成のパターンによって決まり、形態学的に表現される染色体レベルのメカニズムの複雑な総合作用に注目を集めることによって、マツヨイグサは種分化を理解するための道具としての植物の有用性に研究者たちを注目させたのである。次の20年間に、染色体の振る舞い、雑種形成、形態についてのそのような研究や分類学の知識を、自然集団における地理的変異のパターンと結びつけるにあたって、そのような貢献は実は核心的だったのである。


Plants and the Synthesis of Genetics, Systematics, and Paleontology (1920–1950)

 19世紀末の細胞学の進歩によって、染色体には注目が集まっていた。植物の染色体は、動物に比べて大きく数が少ないなどの理由で、細胞学的研究を受けやすかった。倍数性の現象は、プリムラ・キューエンシスとオオマツヨイグサなどの植物で発見された。しかし1917年にOvjnid Wingeの先駆的研究「染色体――それらの数と一般的重要性」が発表されるまで、倍数性のような現象とその生殖プロセスでの染色体の振る舞いが、倍数性・雑種形成・種分化のあいだの関係に注目を惹くことはなかった。染色体の倍加が種内雑種の形成を可能にするというWingeの示唆は、その後次々に実証された。人工的な異質倍数体は、R. E. ClausenとGoodspeedが1925年に実証した。倍数体は既にいくつもの種で認識されているという認識と共に、分類群の系統学的再構築への道は開けた。このようにして、メンデルの再発見、マツヨイグサ遺伝学への関心の高まり、顕微鏡・染色・薄片作製の技術の向上は、細胞学的研究における植物の利用の高まりをもたらした。進化論者にとって最も重要だったのは、染色体数の数と特質は近いグループの関係を決めるのに使えるという認識であった。そのような諸研究の統合は、植物進化の一般理論を導く第一段階だった。
 新しい手法や洞察を用いて植物の種分化や進化を検討する最初期の研究の一つは、ドイツのバウア(Erwin Baur)による、キンギョソウの遺伝と種間関係を理解しようとする1932年の研究である。バウアはそのあとすぐ亡くなってしまったため、彼の研究が完成することはなかったが、それは植物進化の理解のための総合的な研究に道を開いた。

 植物分類学、より正確には植物体系学は、1920年代にダーウィン的進化とゆっくり合体しはじめた。当時、植物分類学者たち全員が集団中心のダーウィン的な思考を受け入れていたわけではなかった。分類学者たちは変異の多い適応的な形質よりも、変異の少ない非適応的形質を重視して分類をしていた。リンネの影響は強く、自然集団における変異のパターンよりも、植物標本に基づいた仕事が行われていた。1920年代に多くの体系学者がそのような静的なアプローチの改革を求め、変異や自然環境における集団の研究を強調した。たとえばスウェーデンのチューレソン(Göte Turesson)は初期の移植実験研究を利用し、環境に対する遺伝型の応答と表現型の応答を識別した。また生態型(異なる環境に移植しても保存されるはっきり異なる形態的・生理的形質を示す、環境に適応した特定の型)の概念をはじめて提唱した。チューレソンが完成させた種生態学(genecology)は自然植物集団におけるそのような変異パターンの理解に大きく貢献した。同様にトゥリル(J. B. Turrill)は、植物が様々な土壌環境にどのように適応するかを調査した。

 チューレソンの生態学的業績、バウアの遺伝学的洞察、その他1920年代の多くの研究者の努力は、1930年代半ばにサンフランシスコ湾岸地帯において結実する。ここでは、専門家たちが植物進化の理解のために学際的な視野を持ち込みはじめていた。1920年代にカリフォルニア大学バークレー校の体系学者Harvey Monroe Hallと生態学者Frederic Clementsは、植物標本室中心の分類学的手法の改革を訴え、系統発生史の反映や環境変異を強調していた。彼らは伝統的な植物分類学者からの抵抗も受けるが、1923年に『分類学の系統学的方法』と題したマニフェストを出版した。Hallはさらに、植物移植実験のプログラムを設立し、様々な分野の知識をもった研究者を求めた。デンマークの遺伝学者・遺伝生態学者であったJens Clausenがワシントンカーネギー協会によってカリフォルニアに呼び寄せられ、分類学者David Keck、生理学者William Hieseyと共同研究を開始した。この「カーネギーチーム」は1930~40年代を通して、地形的な勾配を利用して優れた移植研究をいくつも行った。彼らは環境への応答に光を当てただけでなく、植物の種分化のメカニズムを理解し、植物界において何が正式な種といえるのかを明らかにし、そしてラマラク遺伝を却下する証拠を提供してダーウィン的自然選択説を再建した。3人の努力は指導的進化学者たちの注目を惹き、特にドブジャンスキーは現場を共有するようになった。

 少なくともカーネギーチームと同等に重要なのが、Hallの共同研究者でもあったバークレー校の遺伝学者バブコック(Ernest Brown Babcock)に関連した努力である。米国ではじめて遺伝学部を設立したことでも知られるバブコックは、モーガンのショウジョウバエ遺伝学の成功を植物でも起こそうと、様々な環境で繁殖するクレピス属に目を付けた。しかし雑種形成、倍数性、アポミクシスの相互作用は複雑で謎に包まれており、属の基礎的な系統関係もわからなかった。そこでバブコックは系統学的、すなわち進化的な研究を目指すことになる。彼は様々な学際的技術を取り入れたほか、植物化石から得た洞察を地理的分布の議論に適用した最初の人物の一人であった。1947年にバブコックはクレピス属の系統発生史を包括的にまとめた『クレピス属』を出版し、種分化のメカニズムに焦点を当て、種を非本質主義的に見る「バイオシステマティクス」による植物進化の動的な理解の古典的著作となった。

 この基礎は1938年にステビンズと出版したモノグラフで築かれていた。ステビンズと共同で研究することで、バブコックは雑種形成、倍数性、アポミクシスの総合作用の問題を解いていた。彼らは、植物の特定の属は、有性生殖二倍体を中心として倍数体を生む生殖形式の複合体から成っていることを認識した。倍数性複合体をはっきり示したことは当時の先駆的業績だった。またそれは、種形成、アポミクシスの型における多形性、複合体のプロセスからどのように属の系統発生史を得るかについての知識、などについての洞察も提供していた。ステビンズはこれをさらに掘り下げ、1947年にレビュー記事を書いた。

 バブコックの活動的なクレピス属研究経営により、1930年代には植物遺伝学・体系学・古生物学の融合に注目が集まった。彼は学生や共同研究者や海外からの訪問者などを湾岸地帯に集め、1930年代までには彼とカーネギーチームにより、湾岸地帯は植物進化研究のハブとなっていた。彼らはさまざまな生物を扱う体系学者たちの非公式のグループを組織した。このグループの人々は遺伝学を用いた新しい体系学を志向しており、バイオシステマティストを名乗っていた。グループは湾岸地帯への頻繁な訪問者も引きつけており、アンダーソンやCarl Epling、ドブジャンスキーなどが居た。アンダーソンはアイリスの変異や進化を理解しようとしたことで、変異を測定する方法を考案しただけでなく、移入をきたす雑種形成のメカニズムを理解することになった。

 ドブジャンスキーの1937年の著作『遺伝学と種の起源』は、他の重要著作がコロンビア大学出版から次々に出版されるための触媒となった。1941年にアンダーソンはマイアと共にジェサップ講義に招かれたが、講義をまとめて出版することはなかった。1945年、バークレー校のステビンズは交流の深いドブジャンスキーの推薦によって、コロンビア大学のL.C. Dunnからジェサップ講義に招かれた。この講義は1946年に行われた。彼は雑種形成、倍数性、アポミクシスの相互作用を説明しつつ、ダーリントンの遺伝的システムの考えを利用し、それら自身が選択に従属する遺伝的システムとして理解されることを議論した。ステビンズが1950年に出版した『植物の変異と進化』は、Peter Ravenに「今世紀の植物体系学で最も影響力のあった一冊の本」と評された。この本は、植物進化生物学という新しい分野の概念的フレームワークを形成した。1930~40年代では、すべての植物学者が新しい手法やアプローチや洞察を受け入れていたわけではなかったが、それらを統合した新しい学問分野は1950年までに登場し、植物進化生物学はついにダーウィンの植物学的努力の中心性を認識したのである。

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