2014年2月23日

科学リテラシーの神話 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Preface

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), xi–xviii.

 今世紀に科学教育に向けられてきた熱い視線にも関わらず、アメリカの大衆に「科学リテラシー」を浸透させることはできていない。アメリカの教育では、科学は3R(読み書き算数)とほぼ同等の地位を占めてきた。しかし少数の科学者や技術者を生み出した以外では、アメリカは未だに科学的にilliterateなままであり、今後科学リテラシーが根付く見込みもない。費用対効果で考えれば、科学教育は断念されるべきであるとさえ言える。科学教育共同体は、もはやユートピアとみなされるべき理想に溺れ、「科学教育は根本的に新しいアプローチを採らなくてはならない」という意見を無視している。そして政治家たちやメディアはでたらめにも、意志と圧力さえあれば科学リテラシーを学校教育で教えることは簡単だとみなしてきた。
 「大衆の科学理解」というイディオムはもっと有意味であるはずだ。というのも、科学理解の対象としての大衆をいくつかに区別できるはずだからだ。科学技術に関係した問題を扱うロビー活動グループ、立法者、一般大衆、科学教育者、科学界の人々などがいる。科学、そして科学リテラシーの概念はそれぞれの人々にとって異なった意味を持つ。我々は単純に、それぞれの人々にとって重要な、異なる種類の科学理解を評価することに失敗してきたのだ。
 第二次世界大戦は科学自体と同時に、科学教育事業にもスポットライトを当てた。戦後の再工業化と科学教育を後押しし、スプートニク・ショックではカリキュラムの再構築のために多大な努力がなされた。しかしそのような努力は、universalな科学リテラシーというその主要な目標を達成することができていない。

 本書は科学教育の目的を明らかにし、科学リテラシーの歴史と意味を調査し、過去にそのようなリテラシーを広めることに失敗した理由を説明し、その見込みが今後も無いことを示す。
 大衆の“有益な”科学リテラシーへの期待は神話に過ぎない。我々は、学校での科学教育がそのようなリテラシーに導いてくれるのだと信じ込んできた。実際のところ、それを実現させるどのような手段も持ち合わせいないのにも関わらず、それができるのだという期待的態度は続いている。1989年、ブッシュ(父)大統領は「2000年のアメリカ」計画の一環として、2000年までにアメリカの生徒が科学と数学で世界一の成績になることなどを宣言した。このような非現実的なビジョンでは、多くの資金がつぎ込まれるだけで無駄に終わるだろう。

 科学リテラシーの問題は、単一の問題に集約できない。「科学リテラシーは大衆の利益のために不可欠か」「科学リテラシーは無理のない努力で得られるものなのか」「科学にliterateであるということは実際どういう意味なのか」などを問わなくてはいけない。そのためには、科学リテラシーの歴史を辿ることにもなる。その中で、科学という営み自体がその草創期に直面した哲学的問題と、我々が科学教育において直面している問題とのあいだに、奇妙な類似性があることも見出していく。これらの問題は、第1章から第4章までで扱う。第5章では過去の「二つの文化」の論争について、第6章では科学教育のカリキュラムに関する近年の努力とその貢献について考察する。第7章は科学教育の未来について、特にそこでの教師の役割などについて論じる。第8章では、どれだけの科学リテラシーが本当に必要とされているのかを考察し、一般的な科学教育の根本的な目的を問う。第9章ではこれら全てを踏まえて、一般に考えられている意味での科学リテラシーは理想論に過ぎないという前提から出発し、その代わりとなるアプローチを提案する。エピローグでは、科学教育のために連邦政府が果たすべき役割を論じる。
 この本の中では、生徒の科学リテラシーよりも大人の科学リテラシーが強調される。その理由は単純で、社会において科学的知識を役立てる立場にいるのは大部分が大人だからである。

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