2017年2月16日

「ラマルクの進化論は主に用不用の遺伝」というのは神話 Burkhardt, “Myth 10”

Richard W. Burkhardt Jr., “Myth 10: That Lamarckian Evolution Relied Largely on Use and Disuse and That Darwin Rejected Lamarckian Mechanisms,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 80–87.

神話10「ラマルクの進化は主として用不用に基づいていた。また、ダーウィンはこのラマルクのメカニズムを拒絶した」


生物学の教科書においてラマルク(1744–1829)とダーウィン(1809–1882)の進化論が比較されるとき、ラマルクの理論において主要なメカニズムは獲得形質の遺伝(inheritance of acquired characters)であり、ダーウィンはこれを拒絶して代わりに自然選択を唱えたのであるかのように記述されている。しかし、これらは正しくない。獲得形質の遺伝、すなわち用不用の遺伝的影響は、ラマルクの理論における生物の変化の主要な要因ではなかったし、ダーウィンは用不用の影響の遺伝を固く信じていた。

ラマルクはパリ自然史博物館で無脊椎動物を担当する教授となり、それらを分類するうちに、外的形態よりも内部器官に注目するべきだと考えるようになった。そして内部器官によって区分した分類群は、複雑性が高まっていくひとつながりの系列として整理できることに気づいた。ラマルクは『無脊椎動物誌』(1801)において、多様な動物が存在することの「二つのまったく異なった原因」に言及する。「第一の主要な原因」は、動物を前進的に複雑化させる生命力であり、第二の原因は、多様な環境によって生じる用不用の違いであった。ラマルクは『動物哲学』(1809)において、第二の原因を二つの法則によって定式化しているが、これはしばしばラマルクの理論全体を表現したものとして誤解されている。

ラマルクは獲得形質の遺伝を自分が考えたとも主張していないし、それを実験的に示そうともしていない。用不用の遺伝という考え方は、ラマルクの時代においては当たり前のこととされていたのである。

ダーウィンは、進化の最も主要な要因は自然選択であると考えていたが、獲得形質の遺伝も副次的な要因として固く信じていた。たとえば、家禽化されたアヒルが野生のカモに比べて小さな羽と大きな足の骨をもっていることや、洞窟に住んでいる動物が視力をもっていないことは、用不用の遺伝に帰された。そしてダーウィンは、『家畜と栽培植物の変異』(1868)においてパンゲン説を提唱し、獲得形質の遺伝をもたらす具体的なメカニズムを説明した。だが、ダーウィンはいつもラマルクの理論から距離をとるようにしていた。ダーウィンが用不用の遺伝とラマルクの名前を結び付けたのは、用不用の遺伝では説明できないが自然選択であれば説明できる例を持ち出してラマルクを批判したときだけであった。

【コメント】
(1) ラマルクが用いていた言葉は「獲得形質の遺伝」ではなく「獲得物の転移」。「形質 character」および「遺伝 inheritance」という観念は、ラマルクの時代の生物学にはまだ明確な形で存在しなかった。ラマルクには「適応 adaptation」の概念もない。

(2) 表題の神話がいかにして生まれたのか、という問題はこの章でほとんど扱われていない。ヴァイスマン(1834–1914)が1880年代に生殖質連続説を唱えたことで、はじめて「獲得形質の遺伝」が問題となった(バルテルミ=マドール『ラマルクと進化論』第4章)。

(3) この章は用不用の遺伝の問題に焦点を絞っているが、よくいわれる「ラマルクが進化論の先駆者」という捉え方自体、神話めいたところがあるのではないか。ダーウィンの進化論とラマルクの変移説はまったく異なる。ダーウィンの進化論は(ラマルクよりもむしろ)キュヴィエ(1769–1832)に多くを負っているというフーコーの議論(「生物学史におけるキュヴィエの位置」、『思考集成III』収録)も示唆に富んでいる。

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