2017年2月14日

種概念の本質主義物語を覆す Wilkins, Species: A History of the Idea, Preface & Prologue

John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. vii–xii; 1–8.


● Preface

この本の主要な標的は、過去50年間にわたって科学者たちによって築き上げられてきた本質主義(essentialism)の物語である。哲学者は歴史を書くことを好まないし(好むとすれば合理的再構成のようなもの)、歴史家はインテレクチュアル・ヒストリーを書くことを好まないのだが、哲学者も歴史家も書かなければ科学者が書いてしまうのである。本質主義物語を普及させたのは、主にエルンスト・マイア(Ernst Mayr, 1904–2005)であった。

種概念の歴史がとりわけ重要であるのには理由がある。一般的に言って、科学者たちは分野によって異なる距離で「転がってくる霧の壁(rolling wall of fog)」に追われている。たとえば医学生物学(medical biology)であれば、壁との距離は約5年であり、それ以上前の業績は参照されなくなる。しかし分類学は特異な分野であり、壁との距離が例外的に長い。それゆえ、「種とは何か」という問いは歴史的な性格を帯びるのである。

本質主義物語によれば、生物学的分類群については二種類の基本的な考え方がある。一つ目の立場はプラトンおよびアリストテレスに由来し、それによると、あるタイプに属するメンバーは特定の必要十分な形質のセットをもっていることによって定義されるのであり、それらの形質は固定されていて変化することがない。この考え方は、本質主義、類型学的思考(typological thinking)、形態学的思考(morphological thinking)、固定主義(fixism)などと呼ばれている。もう一方の立場では、分類群は変わり得る形質をもった生物の集団であり、その集団はべつの分類群に変容することもある。この立場は集団思考(population thinking)と呼ばれる。

だが、本質主義物語は間違っている。私はこの誤りを、概念史(conceptual history)の方法によって解消したい。私の主張は三点にまとめられる。第一に、本質主義物語は論理的伝統についての誤読に基づいている。論理的種の形相的定義と生物種の質料的形質のあいだには、アリストテレス以来ずっと明確な線引きがされていた。第二に、いつであれ生物種は発生力(generative power)を含むものとして理解されていた。種に関する現在の考え方も、この長い伝統のなかにある。第三に、種の固定性、本質、タイプは、互いに分離された異なる概念である。なお、本質主義が生物学の哲学で攻撃対象となった背景には、ポパーによる方法論的本質主義批判があったと考えられる。


● Prologue

受け入れられた見方


生物学者たちのあいだで受け入れられてきた本質主義物語を代表する論者として、古生物学者のシンプソン(George Gaylord Simpson, 1902–1984)、マイア、生物学哲学者のハル(David Hull, 1935–2010)を挙げることができる。彼らは共通して、以下のような物語を描いている。プラトンはイデア(form)あるいは種(eidos)を、本質をもつものとして定義した。アリストテレスはこれを引き継いで、類(genos)の本質をすべての種が共有するように類を種に分ける方法をつくり上げた。これに基づいて、リンネは種を一定不変で本質主義的なタイプにした。ダーウィンはこの本質主義を乗り越えた。以降のナチュラリストたちは、遺伝学の影響下で生物学的種概念を発見し、種は本質ではなく祖先を共有する集団となった。集団思考は、本質主義に取って代わってきた。

受け入れられた見方の不十分さ

受け入れられた見方はまったく間違っている。実際には、生物種に関する哲学的論点で近代に問題となったものはどれも、アリストテレスからリンネに至る2000年のあいだに既に現れていた。18世紀以降、種概念に関して本当に新しい概念的要素はほとんど登場していない。また、受け入れられた見方では、普遍論争や大いなる存在の連鎖(Great Chain of Being)が無視されている。類型学と本質主義も結びついていたわけではなく、類型学は様々な点でマイアの集団思考と一致していた。

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