2014年3月24日

ホールデンのホーリズム Hammond, “J. B. S. Haldane, Holism, and Synthesis in Evolution”

Andy Hammond, “J. B. S. Haldane, Holism, and Synthesis in Evolution,” Descended from Darwin: Insights into the History of Evolutionary Studies, 1900–1970, ed. Joe Cain and Michael Ruse (Philadelphia: American Philosophical Society, 2009), 49–70.

 ホールデンは青年時代から、父親のジョン・スコット・ホールデン(以下J. S.)の影響を強く受けた。J. S. はヘーゲルやカントから得た新観念論的・反還元主義的原理の適用を推進した生理学者だった。しかしホールデンの第一次世界大戦での従軍経験は彼の思想を変化させるに十分なものだった。1930年までに、ホールデンは唯物論への共感を強めていた。新しい物理学や、弁証法的唯物論すなわちマルクス主義のホーリズム哲学を吸収し、ホールデンは1933年までに唯物論的な哲学的立場を築いていた。そのような立場の変化の中でも、ホールデンは生涯を通してホーリストであり続けた。

 当時、生気論は新観念論と、機械論は唯物論と関連していた。生気論の主唱者にはHans Driesch、Henri Bergson、E. S. Russell、そしてJ. S. などが居た。彼らが目的を見て取れる生命活動を強調していたのに対し、機械論者たちは生物学における生理化学的な法則を強調していた。ホールデンはこの論争を解決しようとしていた。彼は機械論者に賛成して、生体内のプロセスが物理学や化学の法則に従うのは驚くに値しないとしつつ、生気論者に賛成して、それらのプロセスは生物に特有の仕方で調整されているとした。生物についての真の問題は、heartとmechanismのどちらが第一であるかではなく、両者の関係性なのだという。ホールデンは、メカニズムと目的は「一つの原理に首尾一貫する」(カントはそれを「総合」と呼んだ)ことを示唆していた。
  1920年代のホールデンの生理学研究は父親の足跡を追い、その認識論を採用していた。つまり、生物を傷つけずそのままの状態で研究した。しかし一方で、J. S. の目的の強調に納得はしていなかった。目的とメカニズムとの組合せによってのみ、非還元的で首尾一貫した原理に至り、総合を生むことができるはずだった。

 1923年にホールデンはオックスフォードからケンブリッジ大学に向かい、ここでホールデンに深い影響を与えることになる指導教員のフレデリック・ホプキンズに出会う。ホプキンズのアプローチで中心的な概念は、動的平衡と組織化レベルであった。上位の組織化レベルはそのレベルに特徴的な性質をもつ。また、上位の組織化レベルの振る舞いは下位のレベルに影響する。全体と部分がお互いの性質を部分的に決定している。この見方では、唯物論的でありつつも、目的のある活動を生物全体の性質としていた。目的は、生物全体に特有のある物理化学的性質によっても、部分同士の物理化学的相互作用によっても定められる。このプロセスベースの非還元主義は、目的をメカニズムに従属させず、またメカニズムを目的に従属させることもなかった。このようなホプキンズの視点を通して、ホールデンは生化学の研究手法を学んだ。ホールデンの考えでは、生命に特徴的なものは構造や振る舞いの個々の詳細ではなく、それらが全体を自己調節し自己保存する仕方であった。
 1931年頃までに、ホールデンは遺伝子を生化学的機能によって分類していく。遺伝子は、より複雑で動的な発展プロセスの一部分となった。1932年の小論文では、酵素、遺伝子、環境の相互作用が生物の発達にどう影響するかを推測していた。ホールデンの科学的実践はホプキンズの動的平衡と組織化レベルの概念を受け入れたことで変化したのである。このような描像は、生物学のディシプリンを非還元主義的に総合する可能性を持っていた。

 生化学分野での仕事と同様に、ホールデンの遺伝学研究も唯物論からホーリズムの文脈に移っていた。ホールデンが1920年代に発表していた「自然選択と人為選択についての数学的理論」シリーズは遺伝子のビリヤード宇宙から成り立っており、還元主義的・唯物論的であった。1927年から1930年のあいだに、ホールデンはチェトヴェリコフに会い影響を受けていた。チェトヴェリコフのグループは既に生物測定学、自然史、遺伝学をダーウィニズムのフレームワークの中で結合させ、これは還元主義的な方向性を目指していなかった。「数学的理論」の続編は1930年に3本発表されるが、これらは集団に内部力学を持ち込んだものだった。そこでは、集団は準安定状態の集団や半ば隔離されたコミュニティの集まりとして扱われる。集団の内部構造は変化の可能性を持っており、環境の変化によってその可能性は実現する。このようなシステムベースのホーリスティックなモデルは、以前の5本の「数学的理論」とは異なっており、またこのような変化はホールデンの生化学分野での変化と同時期に起こっていた。またこれらの新しい論文では、ホールデンは動物学者G. P. Bidderのcataclasmsという観念を生態学的メカニズムの説明に用いていた。cataclasmsによって有益な遺伝子が変化したり、選択の方向が反転したりする。
 フィッシャーの集団遺伝学のアプローチは原子論的で、パンミクティックな集団内での自然選択を重んじる。この描像はフォードとの連携を通して得ていた。ライトはホーリストであったが、彼の集団遺伝学は生態学的側面を持たなかった。彼の適応度地形は理論に生態学的次元を付け加えているように見えたが、自然集団への適用可能性は限られていた。ホールデンの集団遺伝学は、ホーリスティックな視点と生態学的メカニズムを兼ね備えていた点でフィッシャーやライトと異なっていた。ホールデンはライトと同じように、フィッシャーのモデルの適用可能性は限られていると考えていたが、一方でライトとは異なり、実質的な生態学的メカニズムを持っていた。ここにはチェトヴェリコフの影響もあっただろう。マイアが数理集団遺伝学を「ビーン・バッグ遺伝学」と呼んだのは、ホールデンのアプローチに対しては当たらない。

 1930年代前半、ホールデンは弁証法的唯物論の研究にも取り組んでいた。
 1945年以降、ホールデンの仕事は遺伝学に大きく傾いていくが、それでも還元主義的プログラムを追求してはいなかった。1947年、プリンストンでの会議「遺伝学、古生物学、進化」でホールデンは進化のホーリスティックな理解の必要性を強調する。倫理や政治を生物学に還元してはならないとホールデンは述べた。1949年の「病気と進化」では、進化において病気がポジティブな役割を果たしてきたと示唆した。ホールデンの議論では、選択の単位としてグループが登場し、非還元主義的な組織化レベルを構成する。1956年の「生物学における時間」では様々なプロセスをそのタイムスケールによって分類する。この論文はジョゼフ・ニーダムの概念に負うところがあり、そのニーダムはマルクス主義ホーリズムに基づいていた。ホールデンはDNAやタンパク質などの細胞構成物質を生物全体の中の単なる「詳細」とみなし、この議論をフリードリヒ・エンゲルスのアイデアに結びつけた。ここには、生物と無生物のあいだに物質的な連続性を認めつつも、それを区別しようとするホールデンの試みがあった。

 生涯を通してホールデンはホーリストであり続けたといえる。彼の立場の変化は、ホーリズムから別のホーリズムへの変化であり、メカニズムだけで生物学全体の描像を描くことができると考えたことはなかった。彼は1930年代前半にホーリスティックなアプローチを生理学に持ち込み、生化学遺伝学では1931年頃に原子論的アプローチからホーリスティックな発展的アプローチに移行した。また彼は、集団遺伝学をメカニスティックなアプローチから、生態学的側面を含んだアプローチに拡張させたのである。こういった変化は部分的には、ホールデンの観念論的ホーリズムから唯物論的ホーリズム、そして弁証法的唯物論へと至った移行によるものである。

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