2014年3月20日

植物版ショウジョウバエ「クレピス属」の研究プログラム Smocovitis, “The “Plant Drosophila””

Smocovitis, “The “Plant Drosophila”: E. B. Babcock, the Genus Crepis , and the Evolution of a Genetics Research Program at Berkeley, 1915–1947,” Historical Studies of the Natural Sciences 39 (2009): 300–355.


 1887年(この論文では1887年となっているが、1877年が正しいと思われる)に生まれたバブコックは、1901年から育種家Luther Burbankの指導を受けて育種家を目指した。1903年にド・フリースが渡米した際にはその講演を聞き、突然変異説に基づく進化と、遺伝学の知識に刺激を受けた。会衆派で信心深かったバブコックにとって進化は創造主の計画の証であり、植物・遺伝学・進化・宗教の繋がりは生涯を通して彼の研究動機であった。1905年に訓練課程の教師に農学教育を教える仕事に就いたが、1907年にカリフォルニア大学のCitrus Experiment Stationに就職し、雑種形成実験を行った。1908年にバークレー校に移った。

 1912年、バブコックは新設された遺伝学部の長に就任し、ますます遺伝学に傾倒するようになった。1918年にはRoy Elwood Clausenと共著でGenetics in Relation to Agricultureという教科書を出版した。モーガンのショウジョウバエプログラムに注目していたバブコックは、それを補強するデータを得るため、植物における“ショウジョウバエ”を探そうとし始めた。この植物は、染色体数が少なく、遺伝的変異が多く、扱いやすく、多くの子孫を残し、自家受精可能でかつ雑種形成も容易なものである必要があった。イーストの論文で染色体数が6本と書かれていたこともあり、バブコックはクレピス属(フタマタタンポポ属)をモデル生物に選んだ。クレピス属はまだ先行研究が少なかったが、形態学的変異に富み、旧世界から新世界まで広く分布し、一年生や二年生から多年生までの種を含み、多様な環境に生息するといった長所を有していた。

 バブコックの初期のクレピス属研究では、染色体数の決定や雑種形成実験がなされた。進化的な変化のプロセスとしては、遺伝子突然変異(モーガンやド・フリースが重視)と雑種形成(J. P. Lostyらが重視)の双方にバブコックは重要性を認め、またラマルク遺伝も否定しなかった。

 1920年代初頭、クレピスプロジェクトはいくつかの致命的な問題に行き当たる。いくつかの種が特殊な土壌等の生育環境を必要とすることや、ショウジョウバエのように遺伝子のマッピングをするのは難しいことなどが判明したのである。新たな種が見つかるにつれ、クレピス属の分類はまったくの混乱状態であることも明らかになった。バブコックは準備段階として、研究プログラムを体系学の方向に転換した。このときバブコックが頼りにしたバークレー校の同僚Harvey Monroe Hallは分類学の改革を訴えており、実験や系統学的視点を重視し、生態学・遺伝学・細胞学・生物地理学の知見を用いようとするなど、当時勃興しつつあったnew systematicsに近い立場をとっていた。バブコックやHallなどクレピス属の研究者たちは、バイオシステマティクスと呼ばれることになる1940年代の動きを1930年代にリードしており、その北カリフォルニアでの流行に貢献した。バブコックとその研究プログラムは「進化論の総合」に決定的な役割を果たしたといえる。バブコックは1934年には遺伝学者、体系学者、古生物学者たちを招いて進化について議論する会合を組織していたし、1943年にも湾岸地帯で重要な会合を開いていた。

 ショウジョウバエプログラムを補強・拡張しようとして始まったクレピスプログラムは、進化的・系統学的研究に転換していた。1928年には、バブコックはプログラムの目標を、クレピス属において作動している進化的プロセスの理解と定めた。バブコックは世界中を回ってクレピス属を収集していた。

 クレピスプログラムは徐々に巨大化し、資金的にも人数的にも大きなプロジェクトになっていった。バブコックは日常的な細胞学的研究・雑種形成実験には直接は関わらず、データを解釈し植物進化の全体像を描く役目を担っていた。バブコックはまた多くの研究者をバークレー校で雇い、あるいは招待していた。

 1930年にバブコックがMichael Navashinと共同で書いた論文では、進化的変化の根本的プロセスを点突然変異、染色体変化(数および形態)、種間雑種形成の三つに分けた。この時点ではどのプロセスが重要であるかを判断できなかったが、その後、バブコックはクレピス属における進化は点突然変異だけでは説明できないと考えるようになる。バブコックは非相同染色体間の相互転座によって染色体数が減少したのだと考えた。当時、フィッシャーやライトは遺伝子突然変異を好んでいたが、ホールデンは植物遺伝学の経験があったので染色体効果を評価していた。

 1934年、バブコックはクレピスプログラムを拡張し、クレピス属および近縁の属の地理的変異の研究に着手した。バブコックはさらなる資金援助を得る一方で、クレピス属の機縁の細胞学的・体系学的研究にあたるアシスタントとして、キク科の細胞遺伝学を研究していたステビンズを1935年に雇った。1930年代後半までに、ドブジャンスキーも湾岸地帯を頻繁に訪れるようになり、またドイツ出身の遺伝学者ゴールドシュミットもバークレー校の動物学科に着任した。

 クレピス属の進化メカニズムの問題を複雑にしていたのは、倍数性とアポミクシスと雑種形成であった。遺伝的システムのパターンは、地理的パターンと相関しているようにも思えた。

 1935年までに、複雑なストーリーを生み出すのに十分なデータが集まった。旧世界の種はn=3,4,5,6で雑種の不稔性が高いのに対し、北アメリカに固有の種はn=11で雑種形成が広範囲に及ぶ。バブコックは、n=11の種は旧世界のいくつかの種を起源とする異質倍数体ではないかと推測した。さらに新世界にも2つの大グループがあると考えた。1つは中西部から東部に分布し22本の染色体を持つグループ、もう1つは西武に分布し22本か44本の染色体数を持つグループであった。後者は葯が未発達であり、アポミクティックであると考えられた。クレピス属の分布パターンは、ステビンズが以前研究したPaeonia(ボタン属)のそれに似ているように思われた。そこでステビンズはバブコックに、北アメリカのクレピス属を一緒に研究させてもらえるよう頼み込んだ。採集のための旅行を行ったあと、染色体数を調べ、集団間で変異の分析をした。この研究の結果は最終的に、1938年の論文にまとめられた。ここでバブコックとステビンズは、無配偶子性複合体と倍数性複合体という新しい概念を作った。

 ステビンズとバブコックはクレピスのアメリカの種を2つのグループに分けた。1つ目はC. runcinataで、この種は4対の染色体をもつ種と7対の染色体をもつ種のあいだで雑種として生まれてから染色体変化を受けていないと考えた。C. runcinataはレンシュの言うところのRassenkreisすなわち多型種である。2つ目のグループは残りの9つの種から成る。これらは倍数性、アポミクシス、雑種形成などのプロセスの産物である。これらの種の有性型は形態的にそれぞれ大きく異なり、地理的に制限され、遺伝的に隔離されている。二倍体の雑種は無い代わりに倍数体が多いが、それらは二倍体と形質を共有していることが多いので、倍数体は二倍体に段階的に移行しているようにみえる。倍数体での分岐進化は静止しており、進化的変化は倍数性・アポミクシス・雑種形成を通して起こっている、とした。これらのプロセスによって、有性生殖する二倍体を中心として無配偶子性複合体が形成される。

 倍数性・アポミクシス・雑種形成による生態的利益は何かを考えるため、バブコックとステビンズは無配偶子性複合体の分布をC. runcinataと比較した。C. runcinataの分布は倍数体の種よりも広範囲で、また厳しい気温にも倍数体と同様に耐えたので、これらの基準では利益を説明できなかった。急速に変化する環境では生殖のスピードと成長力が重要になるので、それを与えるのが倍数性の有利さなのだろうとバブコックとステビンズは示唆した。しかしクレピスのケースはより複雑だった。バブコックとステビンズはheteroploid complexという術語を提唱した。heteroploid complexの進化的効果は、C. runcinataと比較することで明らかになった。heteroploid complexをもつ種では、多型種以上に多型がよく見られ、またその変異の分布も異なる(極端なタイプが分布の中心地に存在する)のである。また、アポミクシスの役割は、新しい変異体を固定することにあるのだと考えられた。heteroploid complexの構造の理解と、倍数性・アポミクシス・雑種形成の進化的効果の理解にもとづいて、バブコックとステビンズは無配偶子性複合体の分類法を考えた。

 1938年の論文は、植物の進化プロセスが哺乳類や鳥類や昆虫のそれと大きく異なることを示すものともいえ、進化の一般理論を探求する人々も関心を示した。ドブジャンスキーも植物遺伝学を気にするようになり、ステビンズやクラウゼンと交流した。1941年の『遺伝学と種の起源』の第二版では、クレピスや他の植物研究の内容が取り入れられた。ハクスリーも『進化――現代的総合』でクレピスプロジェクトと倍数性複合体の重要性を評価した。ハクスリーの記述はある誤解を含んでいたが、バブコックはそれでも喜んだ。

 バブコックはその後、進化のプロセスとして遺伝子突然変異を重視するようになっていった。1944年の記事では、古植物学の知見も用いてクレピス属の進化や地理的な移動の歴史を論じたが、ここでは「隔離」「分化」「適応」を進化の三大プロセスと位置づけ、そこで遺伝子突然変異や自然選択が果たす役割を強調している。クレピスプログラムははじめ農学の文脈で後押しされたこともあり、バブコックは農学や医療に対しての貢献を強調している。バブコックのクレピス研究プログラムの総まとめとなる論文は1947年に出版され、称賛を受けた。バブコックはその年に退職し、1954年に亡くなった。

 クレピス属は、モーガンらの仕事を補強するという当初の目的にはそぐわない生物だったが、代わりに進化や体系学の問題に接近した。植物界の進化の遺伝的基礎を理解するためには理想に近い生物だったといえるだろう。クレピス属はモーガンのショウジョウバエではなく、ドブジャンスキーのショウジョウバエに対応する生物だったのである。クレピス属そのものが研究対象となったという意味では、クレピス属はモデル生物とはいえない。クレピス属の研究は実験研究というよりも自然史的な推論を含んでおり、実験室や温室が実験研究の舞台となったのと同様に、自然環境が進化史の理解に重要な舞台を提供したのである。

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