2014年3月23日

ドブジャンスキーとステビンズ Smocovitis, “Keeping up with Dobzhansky”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Keeping up with Dobzhansky: G. Ledyard Stebbins, Jr., Plant Evolution, and the Evolutionary Synthesis,” History and Philosophy of the Life Sciences 28 (2006): 11–50.


 ステビンズの『植物の変異と進化』は(『体系学と種の起源』や『進化――現代的総合』や『進化のテンポとモード』に比べ)ドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』によく似ており、そのフレームワークを用いていた。特に、ドブジャンスキーの「生物学的種概念」(と後に呼ばれるようになる概念)はそこで強い存在感を放っていたといえる。この論文では、ステビンズがなぜドブジャンスキーに追従することを選んだのかを探ると同時に、二人と彼らをめぐる人々の関係を明らかにしていく。


 ステビンズは、1936年にドブジャンスキーに初めて会ったときは彼の研究に関心を持たなかった。しかしこのとき二人はよく似た状況にあり、どちらも正式な遺伝学の教育を受けたわけではないものの、遺伝学に興味を示し、進化プロセスを遺伝学や細胞学や体系学から明らかにしようとしていた。またドブジャンスキーは、クレピス属プロジェクトによく似た、自然集団の遺伝学(GNP)のプロジェクトを始めようとしていた。二人とも体系学を学んでおり、地理的分布に関心を持ち、一つではなく複数の生物グループを研究していた。またどちらも手が不器用で、古典的な体系学の手法に対する反感を抱いており、進化的系統を再現するために自然集団を理解しようとしていた。他の研究者たちの研究を熱心に読む読書家でもあった。つまり二人は会ったときから多くの共通点を持っており、若く活発なカリフォルニアの進化学者・遺伝学者の数が多くないことを考えれば、二人が親密になるのは時間の問題だったのである。

 ドブジャンスキーは同じくソ連から移住してきた遺伝学者のI. Michael Lernerと親交を深めていた。Lernerはバークレー校に赴いたあと、バブコックの教育助手をしていた大学院生のEverett R. Dempsterらと共に、Genetics Associatedという月一で議論をするグループをつくっていた。ステビンズはGenetics AssociatedでLernerと知り合い、彼を通してドブジャンスキーと再会した。クレピスの種分化パターンを解明しようとしていたステビンズにとって、不稔障壁の産物として形成される進化の段階として種を捉え直す考え方は興味深いものだった。バブコックとの共著論文で、ステビンズはクレピスの種形成と動物の進化の違いを強調するのではなく、類似性に焦点を当てた。

 ステビンズはドブジャンスキーの本に、植物の進化を理解する術を見出だすことができなかった。ステビンズは1939年に進化の講座を開くことを打診され、生徒たちと進化一般についての文献を読み始めた。ステビンズは数理集団遺伝学者たちやド・フリースやモーガン、A. F. Shull、チェトヴェリコフなどの研究を学んでいた。一方ドブジャンスキーは、共同研究者のUCLAのCarl Eplingとの関係もあって、植物進化についての理解を深めていた。そのため、『遺伝学と種の起源』の第二版は植物進化についての最近のデータを多く含むことになった。

 1930年代後半以降のサンフランシスコ湾岸地帯は、バイオシステマティストと呼ばれることになる研究者たちによって進化研究の中心地となっていた。ドブジャンスキーやEplingやミズーリ植物園のアンダーソンはここを頻繁におとずれていた。ドブジャンスキーは1940年にカリフォルニア工科大学からコロンビア大学に転勤となり、湾岸地帯の訪問は一時途絶えるが、結局その後も続いた。1944年の夏からステビンズはドブジャンスキーとさらに親密に関わるようになる。1944年までにステビンズはクレピス研究を終わらせ、戦争による圧力もあって飼料草の改良プロジェクトに入ったが、ここには自然の雑種形成の研究も含まれていた。ステビンズは1945年の夏にドブジャンスキーとマザー(Mather, California)を訪れたが、この訪問は1970年代まで続き、フォード、Hampton Carsonなども訪れることがあった。

 ドブジャンスキーは1953年に生涯で一本だけの単独での植物学論文を発表するが、そこでも進化観はショウジョウバエやライトの理論モデルから得られたものだったといえる。ドブジャンスキーの植物のある品種に関するEplingとの共同研究も、植物進化に対する関心というより進化の一般的パターンに対する関心から生じたものだった。ドブジャンスキーは植物に真の関心を持っていたとはいえず、植物の進化プロセスがショウジョウバエやライトの理論と矛盾するときには特にそうだった。彼は、包括的な進化理論のために植物研究を追っていたし、またショウジョウバエの生活史や自然史との関わりのために、植物の分布について知る必要があった。しかし、植物に特有と考えた現象に中心的な地位を与えることはほとんどなかった。

 1940年代前半、ドブジャンスキーの植物と動物の進化を調和させてほしいという催促に、ステビンズは反応した。ステビンズの進化の講義の構造は、『植物の変異と進化』のそれに近づいていた。この講義では、『遺伝学と種の起源』がますます中心的な位置を占めるようになっていた。その他には、『体系学と種の起源』や『進化――現代的総合』も中心的な教科書となっていた。ステビンズは遺伝学、体系学、植物地理学、古植物学など、幅広い植物科学の知見を有する数少ない研究者になっていた。また特に、進化一般の講義を担当したために動物の進化について幅広く読む機会を得ていた点は、アンダーソンやカーネギーチームも備えていない長所だった。ステビンズは、植物学と動物学を統合する、一般化可能で普遍的な進化理論を求めていた。Eplingは1940年以降、ショウジョウバエ研究を中心としており、植物進化の首尾一貫した理論をつくることはしなかった。またマイアが編集していた会報において、ステビンズは植物と動物の進化に関する議論で中心的な役割を果たした。

 ドブジャンスキーの勧めによって、コロンビア大学動物学科のL. C. Dunnは1946年の春に、その年の秋のジェサップ講義にステビンズを招待した。ステビンズは熱心に準備し、10月15日から11月26日にかけて、計6回の講義を行った。このあいだ、ドブジャンスキーはステビンズを自宅に宿泊させていた。ステビンズは本の最終稿に約2年かけ、1948年の末に完成し、1950年に出版された。ドブジャンスキーとステビンズの親密な交流はその後も続いた。1969年、ドブジャンスキーはロックフェラーでの予算削減等を受け、弟子のアヤラと共に、ステビンズのいるデイビス校へ移ることにした。ドブジャンスキーは1975年に亡くなった。ドブジャンスキーとアヤラ、James Valentine、ステビンズの共著による本『進化』は1977年に出版された。


 ドブジャンスキーとステビンズが、カリフォルニアという同じ土地の動物相と植物相をそれぞれ調査していたことは重要だったといえる。Eplingやカーネギーチームも含め、彼らにとって1940年代のマザーは自然の実験室であった。またドブジャンスキーとステビンズはリベラルな政治観や、生物学と人間の関わりについての見方を共有しており、1940年代後半から1950年代にかけて、二人は最も声の大きいルイセンコ学説の批判者だった。宗教的背景も異なった(ステビンズは監督教会からユニテリアン派に転向した自称「不可知論者」で、ドブジャンスキーは敬虔なロシア正教会のメンバー)が、どちらも1970年代には「科学的創造説」に対して進化を擁護した。

 ドブジャンスキーとEplingは1953年にショウジョウバエのデータの解釈を巡って決裂していたが、ドブジャンスキーとステビンズはまったく同じ領域を研究しようとはせず、それゆえたとえば遺伝子侵入の相対的重要性や進化一般における網状進化の影響力について意見が異なることがあっても、専門とする生物の違いによる意見の違いとして処理することができた。

 そして、どちらもフィールド志向の進化細胞生物学者であったことと、植物と昆虫がお互いに依存関係にあったことが二人を結びつけた。シンプソンやマイアは植物の進化にあまり関心を示さず、それはマイアを共同でジェサップ講義をしたアンダーソンが本を完成させられなかったことにも関係しているかもしれない。そのために1941年に動物と植物の進化を総合することができなかったことは、マイアが植物学は総合に参加するのが遅れたという認識につながっているかもしれない。しかし実際には、総合の時代に植物学者たちは積極的に総合のプロジェクトに参加していた。総合の植物学的業績が総合の最後の本になったのは、植物学者たちの「失敗」や不適当さが原因ではないのである。

 総合は様々な生物を専門とするたくさんの研究者たちを必要としていた。ステビンズがドブジャンスキーから大きな影響を受ける一方で、ドブジャンスキーは自身の理論の強力な検証をステビンズから得ていた。影響の方向は一方向ではなく、多方向的で、仕事の仕方や場所や人脈など様々な要素を含んでいた。そして、ドブジャンスキーとステビンズの相互作用の歴史は、科学が人間によってなされるもので、個人的な関わりが仕事に大きく影響することを確かめさせてくれるものである。

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