2014年3月28日

マイアとアンダーソン、1941年の動物と植物の進化論 Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist”

Kim Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist: Edgar Anderson Prepares the 1941 Jesup Lectures with Ernst Mayr,” Journal of the History of Biology 46 (2012): 73–101.


 1941年にマイアとアンダーソンは、それぞれ動物分野と植物分野の立場を代表して共同でコロンビア大学のジェサップ講義を行った。この論文は、このときの二人の文通を調査し、彼らの視点を理解することでこの時期の進化論における中心的問題についての洞察を得るものである。

p. 75
 1936年のドブジャンスキーのジェサップ講義、および1937年の『遺伝学と種の起源』はメンデル遺伝学と進化のプロセスがどのように両立するかを示していた。ドブジャンスキーとコロンビア大学のL. C. Dunnは次の段階として、アンダーソンとマイアに「分類学の問題」あるいは「分類学(体系学)と種の起源」について議論するように依頼した。マイアはニューヨークの自然史博物館で働いていたので、ドブジャンスキーやDunnと定期的に共同研究することができた。マイアは彼らと議論した上で、その視点をアンダーソンと共有した。
 遺伝学者のアンダーソンはマイアより7歳年上で、経験も多く積んでいた。アンダーソンはBussey Institutionのエドワード・イーストのもとで博士号を取得したあと、1922年からミズーリ植物園に勤め、Iris(アヤメ属)で自然選択が働く変異の供給源としての雑種形成と突然変異の相対的重要性を検証していた。アンダーソンは、種間の相違は個体間の相違とは全く異なる階級のものであると考え、個体間の相違が自然選択などの影響で種間の相違を形作るという証拠はないと判断していた。突然変異から得られた変異の相違の蓄積では、種分化は説明できないと考えていたのである。続くTradescantia(ムラサキツユクサ属)の研究では、断片化、倍数性、雑種形成をそこで働いている進化プロセスとみなした。また、Karl Saxなどから細胞学の知見を仕入れていた。アンダーソンは分類学者と密接に関係した遺伝学者であり、フィールドワークを好みつつも、実験室における新しい技術も理解していた。そして、突然変異が種の相違をもたらすのかについては疑問を抱いていた。

p. 79
 マイアとアンダーソンは、当時の進化の問題について異なった評価と理解をしていた。1940年から41年の二人の文通を検討してみよう。
 マイアは、博物館の動物学者たちのように集団のサンプルを取らない伝統に反逆し、mass collectionの概念を推進しようとしていた。この動きに功がある植物学者として、マイアはイングランドのW. B. Turrill、ウィスコンシンのNorman Fassett、そしてアンダーソンの名前を挙げ、特にアンダーソンが集団の概念を植物学者たちに広めるのに最も貢献していると評している。アンダーソンは当時のマイアへの手紙で、分類学における集団研究の重要性に賛同している。マイアの返信では、動物と植物の分類学の不一致は採集方法の違いにあるのではないかと記している。
 二人は講義についての実践的な打ち合わせも始めていた。マイアはアンダーソンが書いたイントロダクションを高く評価し、講義の初回に位置づけようとする。アンダーソンもマイアの原稿に満足し、その英語を添削していた。アンダーソンのショウジョウバエ研究者たちの考えに反する異説についてもマイアは励ましていた。

p. 83
 1963年にマイアが『動物の種と進化』を出版したとき、マイアはより一般化して植物も含めるよう他の人々に勧められたが、それぞれの界がそれぞれの進化的特徴をもっていることを重要視して従わなかった。
 1940年にハクスリー編集の『新しい体系学』が出版されたとき、アンダーソンはその書評で批判を書いた。ドブジャンスキーはこの批判を厳しすぎると評し、マイアはアンダーソンにそれを伝えた上で自分もドブジャンスキーに同意すると述べた。アンダーソンはミズーリ植物園の同僚たちの意見を聞いて書評を書いていたが、そこではJens ClausenやDavid Keckなどのバイオシステマティストがほとんど引用されていないことが批難されていた。意識的に総合を成し遂げようとしていたマイアと異なり、アンダーソンはマイアのように政治的になる必要性を感じていなかった。また、J. S. L. Gilmourが書いた分類学の哲学的基礎に関する意見も割れ、マイアはGilmourが集団思考を欠いていることを強く批判したのに対し、アンダーソンはそれを認めつつも、アメリカの生物学者たちが特に読んで考えるべき議論をしていると擁護した。

p. 85
 生物学的種概念はマイアとアンダーソンの議論の中心にあった。マイアはドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』の最終章「自然単位としての種」のアイデアを拡張し、「実際的あるいは潜在的な自然交配集団のグループで、そのような他のグループから生殖的に隔離されているもの」という種の定義を『体系学と種の起源』で発表することになる。しかしアンダーソンとの文通で、マイアはこの種概念を生物一般に適用しようとすると困難に直面することに気付かされていた。アンダーソンはマイアへの手紙で、植物の種分化の複雑さを説明し、植物分類学者が脊椎動物分類学の概念を適用しようとしないのは生物学的な理由があるのだと推測した。マイアはこれに対し、鳥類や動物の体系学は植物の体系学に比べずっと単純な問題なのだろうと述べた。アンダーソンにとって、総合の前に為されるべき仕事はたくさんあり、総合の実現可能性は未決問題であった。

p. 87
 ドブジャンスキーはジェサップ講義と『遺伝学と種の起源』において、種の起源は小進化レベルの遺伝的変化で説明でき、大進化もその基礎のもとに説明できることを示した。マイアとアンダーソンが貢献できることは、種分化がどのように起きるか説明することだった。マイアはアンダーソンへの手紙で、ゴールドシュミットが地理的変異を通しての種分化を否定していることを批判している。マイアによれば、ゴールドシュミットは同所性と異所性のギャップを混同しており、同所性のギャップはbridgeless gapsであるという前提から、異所性の種間のギャップも含めてすべての種間のギャップはbridgeless gapsであるという推論をしてしまっているという。マイアは『体系学と種の起源』の第7章で、種概念と、隔離をもたらし維持するメカニズムとを結びつけた。
 一方アンダーソンはゴールドシュミットの『進化の物質的基礎』(1940)について、無批判ではないが好意的な見方をもっていた。アンダーソンはゴールドシュミットの正統的でない結論について、科学的かつ正当に確立されたとはいえないとしつつも、個人的には作業仮説として賛成だとも述べていた。ゴールドシュミットの方も、『進化の物質的基礎』でアンダーソンを10回、バブコックを9回と、数理集団遺伝学者たちよりも多く引用していた。ゴールドシュミットはアンダーソンの仕事をもとにして、Irisにおいて種内の変異は種間の変異をつくらないと論じた。アンダーソンはIrisについての最初の論文(1928)で「種間の相違は個体間の相違とはまったく異なる階級のものである」と述べていた。アンダーソンはマイアへの手紙でも、ゴールドシュミットが言うbridgeless gapsのような異なる階級の相違が種より上のレベルにあると考えているといい、そのようなカテゴリーは種のグループや、亜属や、属などにあたるだろうと述べた。マイアがゴールドシュミットを批判することで種分化や種概念についての考えを明確化したのに対し、アンダーソンにとってゴールドシュミットのアイデアは未解決の、議論途中の問題であった。

p. 90
 マイアが早い時期から講義の準備を入念に進めたのに対し、アンダーソンはそれほどでもなかった。ここには、ドブジャンスキーと同じようにジェサップ講義を用いようと考えていたマイアと、まだ大文字の進化が解き明かされそうにはないと考えていたアンダーソンの意識の差があった。マイアは講義で決定的なことを言おうとしていたのに対し、アンダーソンは示唆的なアイデアを試す場にしようとしていた。
 アンダーソンは聴衆がどのような人々でどのくらいの人数であるかを気にしていた。マイアは、ドブジャンスキーの講義を聴いたときの聴衆は大学院生と教員たちで、主にコロンビア大学だがそれ以外の組織からも来ていたと伝えた。また人数については50人を超えず25~30人くらいかもしれないと言い、聴衆が少ないことにいつも驚いていると述べた。

p. 92
 アンダーソンが実際にどのような講義を行ったかについては史料が少なく、わからない部分が多いが、植物の種分化の複雑性をテーマの一つにした可能性は高い。アンダーソンは1928年の論文で、幾千の遺伝子突然変異が積み重なって種間の相違になるというショウジョウバエ研究者たちの意見には同意せず、進化の要因としての雑種形成や遺伝子侵入や遺伝子連鎖の役割を検討していた。遺伝子突然変異は個体の相違を説明するには十分であるものの、種間の相違はそれだけで説明できないという立場である。1949年の『移入をきたす雑種形成』では進化のメカニズムとしての雑種形成の役割を論じており、このテーマは講義の内容にも入っていたと考えられる。この本ではアンダーソンは、遺伝子侵入による連鎖形質から来る変異性は、自然選択が働く対象として突然変異より潜在的に重要と結論づけている。
 アンダーソンは、壮大な理論的総合よりも、植物進化を形作る力を研究するための示唆的なアプローチを提供していた。アンダーソンがジェサップ講義の内容を本にまとめることを約束していながら結局果たさず、トウモロコシのプロジェクトを立ち上げ、移入をきたす雑種形成の研究を進めていったが、これも総合的・決定的なことを言おうとする研究ではなかった。アンダーソンの本が現れなかったことは、動物中心の総合は不完全で特に植物進化生物学を説明するには不適切だという判断を反映していた。
 アンダーソンはサンフランシスコ湾岸地帯のバイオシステマティストのグループにも関わり、進化の問題に取り組んでいた植物学者たちの中でも中心的な存在であった。しかしその彼が総合の鍵となる出来事であったジェサップ講義の際にとった立場は以上のように、安易に基本原理を打ち立てることに対して警戒するものであったのである。

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