2014年3月20日

自然科学文化、人文学文化、科学対抗文化 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Ch. 5

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 101–127.


 一般大衆の科学リテラシーを実現する上での問題の一つが、学術におけるロールモデルとなっている多くの大学知識人たちが科学リテラシーへの熱意を欠いていることである。 
 
 世代を超えて燻り続けている「二つの文化(自然科学と人文学)」の論争を再検討してみよう。戦後の科学教育の再建の頃、数学者兼詩人のJacob Bronowskiと科学者兼作家のC. P. Snowという二人が活躍したが、どちらも科学教育の実践に目に見える影響を及ぼすことはできなかった。Bronowskiは1956年のエッセイで、オルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』(1932)やジョージ・オーウェルの『1984年』(1949)で描かれたディストピアに触れて、科学がわかる専門家とわからない一般大衆に社会が分断されることの危険を説いた上で、1984年には誰もが科学的教養を身につけているように教育すべきだと主張した。しかし結果的にはBronowskiの予想は裏切られ、科学者たちが一般大衆を支配する時代はやって来ることはなく、逆に科学がわからない人たちに科学予算が決められるような状況が続いている。

 スノーは、知識人たちの世界が「二つの文化」に裂かれてしまっていることに警鐘を鳴らした。スノーは人文学者たちに、「熱力学第二法則について何を知っているか?」と問いかけた(のちに「分子生物学について何を知っているか?」に変えた)。さらにスノーはこれを、人文学における「シェイクスピアの作品を読んだことがあるか?」と同程度の質問だと述べた。当時スノーに対しては批判の嵐が巻き起こった。

 科学的教養を身につけていない人々は、科学やテクノロジーを現代社会に不可欠なものとして受け入れながらも、科学に対する消極的抵抗を見せる傾向がある。特に、大学の人文学者が科学を学ぼうとしない姿勢を見せがちであることは、文系の学生たちを科学から遠ざける結果をもたらしていると考えられる。同様に、理系の教員や学生も人文学を学ぼうとしない傾向にある。

 また、汚染や生態学的災害や軍事兵器などを生み出した責任が科学という営み全体にあると考え、明確に反科学の立場をとる人々もいる。これらの人々(①)や、反科学を公言していなくても実質的にそうなっている人々(②)、そして科学を作り変えたいと考える人々=ポストモダニスト(③)から成る、科学対抗文化(science counterculture)という三つ目の文化が勢いを増している。①や②の人々は、環境か、社会の幸福、特にヘルスケアに関する問題意識から出発している。③は科学の根本となる真実や理性的思考をひっくり返そうとする動きである。また、ニューエイジ運動にも反科学的な動きが多く含まれている。

 現代技術懐疑派(neo-Luddite、19世紀初頭英国のラッダイト運動に由来)を名乗るグループも現れている。彼らは科学やテクノロジーを有害であるとみなし、テクノロジーを使用者に理解できるレベルのものに置き換えようと主張する。たしかに、ルネッサンス以来の科学の進歩が目覚ましいからといって、それがすべて世界に対する恩恵であるとは言い切れないの。科学が人間的な価値や思考の自由を奪っていると説く論者もいる。ファイヤアーベントは科学を民主主義に対する脅威として特徴付け、一般大衆によって監督されなければならないと考えた。また、科学やテクノロジーを民主化することを重要視する論者たちも現れている。

 他にも反科学的な性格をもつグループは多く現れており、動物の権利運動はその一つである。動物保護運動が動物実験に対して責任や人道性だけを要求したのに対し、動物の権利運動は動物のそのような取り扱いを一切廃絶することを要求する。動物の権利運動の成長は、感情だけで考えるのではなく理性で考えることの重要性を生徒や一般大衆に納得させられなかった失敗例の一つだと言えるだろう。

 Jeremy Rifkinは、現代社会はテクノロジーの為すがままになっており、そのため新しい技術は疑いをもって見るべきであり、少しでもリスクがあれば放棄すべきだと主張している。現代技術懐疑派との重要な違いは、新しいテクノロジーの導入に対して極めて慎重であるものの、すでに存在するテクノロジーを廃止しようとはしない点である。しかしRifkinらの議論はしばしば誤った科学的前提に基づく。政治の舞台で十分に議論ができる、責任があって公平で科学を熟知している人物が求められている。

 大衆紙は疑似科学への警鐘を鳴らす役割を果たすことが期待される存在だが、その期待に応えていない。残念ながら、大衆は新聞に科学教育を求めていないのである。新聞を書く側の人間も、実は多くが「創造科学」を信用しているというアンケート結果が示すように、科学に興味をもっていない。しかし、マスメディアの科学に対する姿勢次第で、大人社会の科学リテラシーが変わる可能性は十分にあるのである。

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