2014年4月21日

科学史のグローバルターン McCook, “Introduction” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】

Stuart McCook, “Introduction,” Isis 104 (2013): 773–776.


 この特集の4つの論考は、近年の科学史におけるグローバルヒストリーの台頭(グローバルターン)が与える影響を、ラテンアメリカの科学の4つの分野について検討するものである。どの論考も、19世紀半ばから20世紀半ばまであたりの時代を扱っている。

 ラテンアメリカは、グローバルヒストリーがどのように国史や地域史を豊かにできるかを探究するための実験室、モデルを提供できる。1500年以降、ラテンアメリカでは人口が激減し、また大量の移民が流入した。そのため19世紀中頃までには、「西洋/非西洋」「植民地開拓者/植民地開拓された側の者」「中心/周辺」などといった二項対立の概念は単純には適用できなくなっている。歴史家はしばしばlocal knowledgeとindigenous knowledgeを同一視するが、ラテンアメリカにおいてはindigenous knowledgeはlocal knowledgeの一種に過ぎないのであり、「クレオール科学」という概念はこの複雑性をよく捉えている。つまり、科学知識は多様なたくさんの層の人々によって共同でつくられたのである。

 従来、ラテンアメリカの歴史家は国民国家を分析の要とし、グローバルは遠景としてしか扱わなかった。また古い世代のグローバルヒストリアンは、ラテンアメリカに歴史上の周辺的地位しか与えてこなかった。より近年のグローバルヒストリーは「中心と周辺」を括弧付きで許容している。グローバルな科学的知識は、中心から最も遠い「周辺」で生み出されることも有りえるのである。

 ラテンアメリカの諸国は、他の地域の国々と比べて比較的早く独立することになったが、国民国家を築く過程で科学を必要とした。一方、エリート層は超国家的な科学のネットワークに国を参加させようとした。Duarteの論考は、国家のための科学と超国家的な科学のあいだの緊張関係を描いている。
 当時、南の国々は“新”コロンビア交換などの似通った様式のグローバル化を経験したため、似通った問題を共有していた。Prietoの論考で扱われている、異なる地域の砂糖生産者たちが様々な交換をしていた事例などはその一例である。
 新しいグローバルヒストリーは、グローバル化を称賛したり、権力の不公平の問題を覆い隠してしまったりする可能性がある。この問題に関して、Rodriguezの論考で “smart centering of Latin America” と呼ばれている議論が求められる。
 ラテンアメリカの科学者たちはしばしば、知識生産における地元の非科学者たちの果たした役割を黙殺してきたし、同様に外国の科学者たちはラテンアメリカの科学者たちの役割を黙殺してきた。これらの沈黙は何を意味するだろうか。すべての科学知識は究極的にクレオールである、という可能性がこの問題から考えられる。
 DuarteやEspinosaの論考では、 “following” という方法論が描かれている。これは何かが世界を動きまわるのを追いかけて、そのときに何が起こっているのかを分析するという手法である。この手法によって、知識の生産や伝達をする主体が何なのかを明らかにすることができ、また権力の問題にも接近できると考えられる。

 これらの新しいアプローチはどれも、構造分析を単純にしたり明快にしたりしない。しかし単純なモデルや物語がないからといって、我々は置き去りにされてしまうわけではない。グローバルターンは我々を導く問題や方法論を提供してくれているのである。

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