2014年4月24日

伝記:エドガー・アンダーソン Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969)”

G. Ledyard Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969),” Biographical Memoirs of the National Academy of Sciences 49 (1978): 3–23.

 アンダーソンは20世紀の植物科学に消えることのない印象を残した。集団における変異を記録する彼の手法は広く普及した。また、ボストンのハーバード大学アーノルド植物園およびセントルイスのミズーリ植物園のスタッフとして、植物を愛する様々な人々や庭師たちとの交流をもった。
 ニューヨークに生まれ、ミシガンで育ったアンダーソンは16歳でミシガン農科大学に入学し、園芸学を専攻した。1919年にはボストンに向かい、ハーバード大学のバッセイ研究所の大学院生としてエドワード・イーストの下で働いた。アンダーソンはタバコの自家不和合性についての遺伝学を研究する一方で、田舎を歩いて野生の植物についても学んでいた。植物学者のDorothy Mooreと出会い、1923年に結婚した。
 1922年に博士号を取得してハーバード大学を離れ、9年間をミズーリ植物園で過ごした。このあいだに、植物集団の変異を見て記録する独創的で効果的な手法を開発していた。またこの時期に、植物の属の複雑性と変異の大きさを意識するようになっていた。Iris versicolorについての研究で、この種が実際は2つの種から成り立っていることを発見し、片方がもう片方から進化してきた過程を分析しようとした。しかしどちらの種の中にも、もう片方の種に進化したと想像できる集団は見出だせなかった。そこでアンダーソンは片方の種がまったく別の種から、不稔で安定した何世代にも渡って同じ特徴を示す複二倍体を生み出す染色体倍加に続く雑種形成によって進化したのだと結論づけた。これは、植物の種が染色体倍加に続く(あるいは伴う)雑種形成によって進化できるのだということを示した最初の実証の一つだった。
 別に調査していたAster anomalusはまったく異なる変異パターンを示しており、単一集団の中に種全体と同じほどの豊富な変異を保持していた。アンダーソンは実験によってこれらの変異の大部分が表現型の変化によるものであることを示したが、繁殖特性は豊富な遺伝子型変異を示し、しかも遺伝子型変異のわりには表現型変異が少なかった。さらに個体はヘテロ接合性が高く、自然受粉によるその子孫は種全体と同程度の幅の変異を示した。アンダーソンは自然集団における遺伝的変異の研究の先駆者であったといえる。
 1929年から30年にかけて、特別研究員としてイングランドに向かい、主にホールデンに指導されつつ、ダーリントンの下で細胞学を、フィッシャーとともに統計学を学んだ。ホールデンに紹介されたPrimula sinensisの変異体について、Dorothea De Wintonと共に分析した。
 1931年から35年までは、アーノルド植物園の樹木管理士としてハーバードに留まった。この時期、Karl Saxと共同で多くの重要な研究を行った。Saxはアンダーソンに、種の起源における染色体変異の重要性を気付かせていた。TradescentiaについてのSaxとの共同研究は、アンダーソンの2つの最大の貢献、すなわち遺伝子移入の概念と、 “hybridization of the habitat” の概念に導いた。
 1935年にミズーリ植物園に戻ってからは、以降の人生をそこで過ごした。Tradescentiaの研究では、環境の物理的条件に関して集団の変異パターンを記録し、また2つの異なる種の同所的出現を記録した。異なる生体適応をもっている2つの種が中間的生息地なしに近くで成長するときはいつでも、2つの種ははっきりと隔たっている。しかし、もし中間的生息地があれば、しばしば見かけ上の雑種に占領される。もし中間的生息地が、元の2つの種のどちらかの生息地に特徴的なものに次第に変化すれば、見かけ上の戻し交配した植物が見つかる。さらに、部分的に異所性の種の場合、種Aの変異パターンは、それ自体が育った地域より、種Bと重なった地域において大きい。アンダーソンはこの現象を「移入をきたす雑種形成」と呼んだ。
 Irisの研究に戻って、アンダーソンはミシシッピ川デルタ地帯の集団の複雑な変異パターンを分析した。ここでアンダーソンは、種間雑種は人間の活動で撹乱された生息地、特に元の種の物理的特徴の組合せが見られる場所において最も豊富であることを見出した。これらの新しい生息地を、 “hybridized habitats” と名付けた。
 この研究は、アンダーソンの最も重要で広く引用された著作『移入をきたす雑種形成』の出版、および同じテーマでの論文一報につながった。さらに、1954年にステビンズと共に「進化の刺激としての雑種形成」という論文を発表した。
 1939年、Paul MangelsdorfとRobert G. Reevesが発表したトウモロコシの起源に関する論文に刺激され、アンダーソンはトウモロコシの研究に踏み出す。この研究の中で散布図を用いる手法を洗練させており(pictorialized scatter diagram)、それは雑種の大群を分析する際に大いに有用なものだった。トウモロコシへの関心から、地理学者、人類学者、考古学者らと関わるようになり、分野横断的な研究も行った。こういった経験は1952年の『植物、人間、生命』の出版につながった。
1954年にミズーリ植物園の管理者となるが、仕事の多さのために1957年に辞職して教育と研究に戻った。しかし1960年代のあいだは病気に冒され、あまり創造的な仕事はできなかった。1969年に亡くなり、1972年のミズーリ植物園年代記で彼の特集が組まれた。またアンダーソンは1954年に、米国科学アカデミーに選ばれていた。
 アンダーソンは現代の植物科学において、創造的で実りある考えを生み出す能力をもった人物であったが、ときどきばかげた仮説を発表してしまう失策もあった。彼は謙虚な人柄であり、若いうちにクエーカーの会員となった、生涯にわたって信仰心の厚い人物でもあった。野心的で攻撃的な一面もあり、知性的に劣っているとみなした科学者を蔑むこともあった一方で、知性と野心のある若い科学者には温かい人物であった。

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