2014年4月11日

ライエルの文章、地質学者の「自由」 O’Connor, The Earth on Show, Ch. 4

Ralph O’Connor, The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856 (Chicago: University of Chicago Press, 2007), 163-187.


第4章 ライエル介入する


 ライエルは、英国の科学に新しい概念(地球が非常に古いことなど)や新しい手法(現在因の過去への適用など)を持ち込んだことで今でも評価されている。しかし、これらの概念や手法は当時、多くの実践地質学者たちのあいだで暗黙のうちに用いられていた平凡なものなのであって、ライエルの本当の偉大さは莫大な科学的データを優雅で修辞法的に説得力のある文章で展開したことにこそある


1. 取り戻された黙示録

 人々の創世記への固執は、ライエルにとって科学のために取り除くべき障害であった。地質学における聖書の影響力は直解主義者たちの著述によって大きくなっており、ライエルは聖書と地質学的推論とのあいだの全ての接続(バックランドやコニベアの妥協的理論を含む)を否定する必要を感じていた。「クォータリー・レビュー」においてライエルは直解主義者たちを戯画化し、彼らの教条主義と、彼らによる地質学の侵害を強調した。また、直解主義者たちの説は哲学的情報が普及している国では支持されていない、などとする効果的な文句を法律家的な修辞法で書き立てた。ライエルは広い知識人層を自分の側に取り込もうとしていたのである。

 ライエルは、ニュートン力学的な不変の法則を地質学に取り入れようとしていた。のちにヒューウェルが「斉一説論者」「激変説論者」という呼び名を付けたせいで誤解されがちだが、ライエルの「激変説論者」との対立は宇宙論的というより方法論的なものである。

 しかし、ライエルの方法論は地球の歴史が極めて長いことを要求しており、ラドウィックが強調したように、「変わる必要があったのは彼らの科学的想像力だった」。地球の歴史は現在因で十分に説明できることを示すために、ライエルは現代の火山や激流の激しさを巧みに描いたり、第三紀の湖の穏やかな様子を描写した後にそれが火山活動によって破壊される様を黙示録的に描いたりした。また、古典的文化の保守的守護者であるウェルギリウスに付き従って地下世界を見たダンテ(どちらもダンテ『神曲』の登場人物)の話をしたり、「謎」「秘密」といった言葉を頻繁に使ったり、地質学者を時間を超越した知的支配をする超人間的な存在として描いたり、視覚に関わる言葉をたくさん使ったりすることで、ライエルは読者の想像力に強く訴えかけていた

 それでも、この「クォータリー・レビュー」の時代はまだ、直解主義者たちの側に勢いがあったのである。


2. 地質学原理

 1830年に出版された『地質学原理』第1巻は、保守的な直解主義と革新的な転成主義を非哲学的であるとして排除し、地球史を語ることについての地質学者の権威を宣言することで、地質学を科学の地位に押し上げた


 地球の活動は今も活発であるということを強調するライエルは、人類の記録に残っている数々の地震や噴火、洪水などを、自らの経験も踏まえて一つずつ克明に描写した。ライエルはこれらの現象を壮大に描くことで、読者の大災害に対する欲求を満たし、激変説の支配力を弱めようとしていた。そしてこれらの世界中で起きた現象の数々を読み進めるうちに、読者の視点は全地球的レベルになり、歴史の流れを見下ろせるようになる。こうして地球を「変化の劇場」と思えるようになった読者は、個々の現象の蓄積に、世界を変える力を「感じる」ようになるのである。

 このような視点の移行を可能にした方法は、バイロンから借用された。クライマックスとなる章は、バイロンの詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』からの引用で締め括られるが、この詩にはライエルと共通する俯瞰的な見方が含まれている。バイロンの詩のイメージは、個々の歴史的具体例から時の流れへと向かう想像力をライエルの読者に理解させる手助けをしていた。

 しかし、バイロンの詩が大洋の永遠性を人間の儚さと対比する哀愁を含んでいたのに対し、ライエルの文章は知的支配の喜びに満ちた調子になっている。ライエルの思考実験(イタリア半島を沈めたり、北極海に陸地を出現させたりする)は徐々に過激になり、そこでのライエルの叙述は仮定法から命令法に移っていった。ライエルは俯瞰する視点で仮想世界を次々に展開させていき、その文章は詩のようになっている(声に出して読み上げてみればその詩的な美しさがわかるだろう)。そしてその最後でライエルは、気候が暖かくなったらイグアノドンなどの昔の生物が出てくるかもしれない、という想像を書いた。これは、下等な生物から高等な生物へと進む方向主義的な創造の歴史という考え方に反対して述べたのだったが、ライエルはこのとき、詩的な想像を巡らせる文章の調子で反直観的な仮説を書いてしまったのだった。

 このせいで、ライエルはデ・ラ・ビーチの風刺画によって反撃を受けることになる。その風刺画にはバイロンのある詩の一節が記されており、このことはデ・ラ・ビーチが、ライエルの推論はロマンチックな想像力が過熱したものに過ぎないのではないかと考えていたことを示唆する。


 「クォータリー・レビュー」の黙示録的な記述は、『地質学原理』では思考実験に入れ替えられている。ライエルは『地質学原理』のなかで、現代の世界や仮想世界については生き生きと描写しておきながら、なぜ古代の地球については同様の描写をしなかったのだろうか。それは、ライエルにとって地質学的推論の認識論的な力は、昔の世界を描くよりも、むしろ神の代わりとなって世界をつくってみせることで伝えられるものだったからかもしれない。

 その力のショーは結局、地質学者の「自由」を強化することになる。地質学者の「自由」が神から与えられたものであるのは、ライエルの記述においては重要なことだった。パノラマ的な視点は地質学者を創世記から解放し、断片的に散りばめられた物語を再構成することを可能にするものだった。ライエルは『地質学原理』において、キュヴィエのいう「新しい秩序の古物収集家」としての地質学者の地位を強調していた。そしてライエルは『地質学原理』を、地質学者たちが地球を解読する仕事のための土台とみなしていた。ライエルは科学的知識を民主化したのではなく、新しい種類の科学的専門家を定義し推進したのであるそして地質学者の権威を宣伝することで、ライエルは新しい科学のための新しい大衆をつくり、大衆教育についての新しい考えを強化していた


3. ライエルの大衆

 『地質学原理』の初版は「クォータリー・レビュー」と同様、保守的で裕福な層をメインターゲットにして書かれたものだったが、ライエルは正しい自然の知識が下流階級の人々にも普及されるべきだと考えていた。そこで1834年に第3版として安い『地質学原理』が出版され、よく売れた。

 ライエルの『地質学原理』に対する反応は、好意的なものが多かった。もちろん反対意見も相次いだが、ライエルが科学における哲学的議論の地位を変え、地質学において歴史的解釈と積極的想像力を復権させたことは一般的に認められていた。また、ライエルは新しい地質学の文化的権威と独立性を宣言したことでも重要な役割を果たしており、大衆は地質学者たちを壮大な航海に誘ってくれる信頼に値する人々とみなすようになっていた。1830年以降、地質学に関する通俗書が次々と出版された。バックランドはその代表的な著者の一人である。

 地質学の大衆化の開花は、ライエルやバックランドの貢献をはじめ、出版産業の変化、層序学の専門家の需要の増大、ウィッグ党の教育理論、大学改革など、様々な要因が重なったことで発生した。ともかく、ここに地球史の著述の黄金時代が幕を開けたのである。

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