2015年2月23日

適応としての総合 Cain, “Synthesis Period in Evolutionary Studies”

Joe Cain, “Synthesis Period in Evolutionary Studies,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 282–292.

 「進化論の総合」は、進化研究における1920年から1950年頃の時期を指す言葉であり、一つのディシプリンが形成された時期を指す言葉である。そしてその核は1930年代にあったといえる。

 総合の第一の層は、数理集団遺伝学である。フィッシャーのモデル(1930)は、小さな選択的優位性でもそれほどの世代数を経ずに重要な変化をもたらすことができることを示した。フィッシャーのモデルが集団の個体数は非常に大きいことを前提としていたのに対し、ライトは集団の個体数が大きく変動し得ることを前提とした。それゆえ、ライトは大きな集団では自然選択が、小さな集団は偶然性が進化を操縦するという平衡推移理論を唱えた。1930年代には、数学理論家がフィールド生物学者と連携する動きが進み、フィッシャーはフォードと、ライトはドブジャンスキーと共同で研究した。
 総合の第二の層は、自然集団における進化の研究である。この研究は、遺伝学や細胞学といった実験室的手法と、自然史や体系学といったフィールド研究的手法を結びつけた。特に重要な貢献をしたのは、ドブジャンスキー、マイア、アンダーソン、ハクスリー、シンプソン、ステビンズらである。ドブジャンスキーは、アメリカじゅうのショウジョウバエの自然集団を研究するリサーチプログラムを発展させた。マイアは種分化の理論を生み出した。1935年以降、親しくなったドブジャンスキーとマイアはお互いに大きな影響を与え合った。さまざまな意味で、この遺伝学者とナチュラリストの交友こそ、総合におけるディシプリン間の橋渡しの核であった。マイア自身、総合を歴史的に考察するにあたって、いつも彼とドブジャンスキーの交友を中心に置き、それが他の橋渡し役(たとえば古生物学のシンプソンや植物学のステビンズ)に向かって広がっていったのだという書き方をした。どの橋渡しにおいても、遺伝学における染色体説がその基礎となっていた。

 総合は、なぜこの時代に起こったのか。総合は、科学における規範の変化に対する適応として理解されるべきである。
 まず手法について言えば、重要なのは新しい手法が開発されたということではなく、良い手法と悪い手法とを判断する価値基準が変わったということである。20世紀前半は、生命科学において検査、標準化、介入、制御に重点を置く実験的手法が支配的になった時代であった。これは、動物学や植物学における、帰納や一般化、そして記述的で経験的な「法則」を重視する古い手法とは対照的なものであった。そのため、1900年代や1910年代の進化研究は、弱々しい時代遅れのものに見えるようになってしまったのである。またこの時代には、調査も次第に定量的なものになっていった。種の分類も、このような潮流のために生物学的種概念を中心とするものに変わっていき、英国では「新体系学」が、米国では「実験分類学」が台頭した。標準化された客観的な基準として、染色体数や染色体組の数を数える方法や、血液化学、交配検査が用いられるようになった。集団遺伝学は、予測を可能にするモデルとして用いられた。
 研究の焦点もまた、対象物それ自体からプロセスへと変化していた。哺乳類学や鳥類学といったディシプリンが消え行く一方で、生態学、生物地理学、動物行動学、進化といったディシプリンが現れていた。生物学者たちは、個々の生物それ自体を研究するのではなく、それを一般的現象の例として研究するようになっていた。こうした関心は、19世紀の学者としては珍しく物よりもプロセスに重点を置いていたダーウィンと共通する。また、種分化研究のようにメカニズムを分析しようとする学問分野が盛んになっていた。総合説の擁護者たちは、記述的、静的な研究から因果的、動的な研究への転換を訴えていた。

 総合の時期には、それを支える社会的基盤もつくられていった。英国ではASSGB(the Association for the Study of Systematics in Relation to General Biology)が、米国ではサンフランシスコ地帯、シカゴ大学、アメリカ自然史博物館、スミソニアン大学などにディシプリンを超えた研究者たちが集まった。マイアが中心となって形成したネットワークは1946年にSSE(the Society for the Study of Evolution)に結実し、マイアは1947年創刊のEvolution誌の初代編集長となった。このようにして生まれた新しいディシプリンにおいて、ダーウィンと『種の起源』は彼らのヒーローとしての地位を与えられ、本来のダーウィニズムがその「凋落」を乗り越えて復活したという物語がつくられた。しかしそれは、総合説がダーウィンの説に立ち返ったからというよりも、ダーウィンが因果的なプロセスを重視し、注意深い議論と確かな手法のもとに彼の本を書いたからだと言えるだろう。

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