2020年1月3日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 1

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 1.

第1章「メンデル主義――発見か、発明か?」

 この本は、遺伝学の歴史についての一般的に普及している神話に対して挑戦する。
この挑戦は3つのレベルから成る。第一は、概念的なレベルである。メンデルの法則は、(a)世代間での形質の伝達は意義ある独立した研究領域を成す、(b)形質はそれぞれ別個の単位として扱える、という遺伝の理論的モデルのなかではじめて重要な発見となる。ダーウィンやその同時代人たちは、世代間での形質の伝達と、成長する生物のなかで形質が生まれる過程とを区別しない遺伝の発生モデルを受け入れていて、生殖と成長を統合された生物学的過程として扱っていたので、伝達に関する別個の研究領域というものは考えられなかった。この図式は、形質が変わらないまま世代間で伝達されるという考えもできなくしていた。それゆえ、メンデルの法則の受容は事実の発見ではなく、新しい概念図式の創造に依存していた。遺伝学は、遺伝それ自体についての新しいアイデアだけではなく、遺伝と他の生物学的現象との関係についての新しいアイデアの産物でもあった。

 この本の目的のひとつは、生物学における「メンデル革命」と呼べるものの絶対的な領域を強調することである。それ以前は、生殖と遺伝に関する発生的な見方によって、生物学者たちは進化が目的をもつ過程であると信じ続けることができた。ダーウィンは、進化が道徳的に有意味な目標へと不可避的に向かうという考えを取り除こうとしたができなかった。現代の生物学者たちが、進化は予め定められた目標に向かっていると考えないのは、大部分で、メンデル主義の到来と結びついた概念的革命の結果である。メンデルと同時代の生物学者たちが、30年以上後に明らかになる含意に気づけなかったのは当然のことである。今では、メンデルは新しい遺伝の理論を開拓しようとはしていなかったと考える遺伝学史家たちがいる。メンデルの本当の関心は、進化の代案としての種の交雑にあり、形質の遺伝における規則性の発見はその研究プログラムの副産物に過ぎなかった。

 第二は、職業的なレベルである。遺伝学の出現は、科学コミュニティーのなかで新しい研究領域を認めさせる社会的な活動の結果でもあった。古典遺伝学はアメリカで大きな制度的成功を収めたが、英国ではそこまで明確な領域にならず、ドイツではもっと弱く、フランスではほとんど全く存在しなかった。このような国ごとの違いからもわかるように、遺伝学は「当たり前」の研究領域ではなかった。

 第三は、イデオロギーのレベルである。新しい法則や理論は、単に発見されるのではなく、科学者たちや世間の文化的価値観を満足させるように発明される。メンデルの法則の再発見は、「遺伝主義的」な社会的ポリシーが政治の舞台に上がるのと時を同じくしていた。世紀の変わり目の頃、政治家や評論家たちが、人間の能力は遺伝によって厳格に決定されているから、環境の改善は意味がないと論じはじめていたのである。今日では、遺伝主義的な言説は「社会ダーウィニズム」の再来とみなされることが多く、これはメンデル主義ではなくダーウィン主義がそのような価値観の源であるという理解に基づいている。しかし、19世紀後半の古典的社会ダーウィニズムは、スペンサーの進化哲学の派生であり、スペンサーは必ずしも遺伝主義者ではなかった。スペンサーは、19世紀の他のほとんど誰もと同じように、それぞれの人種の知的・道徳的能力は定まっていると考えていたが、近代ヨーロッパ社会のなかでは、個人の達成が遺伝的性質に制限されるとは考えていなかった。スペンサーが無制限の競争を支持したのは、各々がつらい結果を逃れるために努力しようと駆り立てられることが目的であった。20世紀初頭の遺伝主義的なアイデアは、個人の達成レベルは遺伝によって決定された生物学的形質によって定まっているので努力を駆り立てることはできないという考え方であり、イデオロギーが転換したことを示している。

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