2020年1月10日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 4

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 4.

第4章「発生と遺伝における細胞」

 ヘッケルをはじめとする進化形態学者たちは、発生過程の初期段階を研究することで生命の歴史の初期段階を明らかにしようとしていた。しかし、1880年代までに反復説の魅力は低下しはじめ、発生学がそれ自体の研究領域として復活した。ヴィルヘルム・ルーは、カエルの卵割球の片方を針で壊す実験をおこない、成長が不完全になることを確認して、発生は卵に含まれる物質によって予め定められているのだと論じた。ルーはさらに、胚の細胞分裂では生殖物質がそれぞれの娘細胞に分配されていくのだという「モザイク」説を唱えた。ヴァイスマンの生殖質説も似たモデルを採用し、染色体に存在する物質によって生物の構造は予め定められているのだとした。現代的といわれるヴァイスマンのハードな遺伝の概念は、発生の理論と結びついていた。
 しかし、多くの生物学者は、胚の発生が遺伝によって予め定められた形質の開梱であるという理論に納得しなかった。ハンス・ドリーシュは、発生途中のウニ胚をバラバラにする実験で、それぞれの細胞が完全なウニに成長するのを確認した。そこでドリーシュは、生物の成長力はそれぞれの細胞に分配されているのではないし、成長が予め物質によって定められているわけでもないと論じた。彼らの理論は、ルーやヴァイスマンの新しい前成説に対立する後成説であった。この後成説は、独立した遺伝研究の出現に対して発展主義の伝統が障害となり続けていたことを示している。1900年までの時点では、交配実験ではなく実験発生学のほうが、生殖を理解するための有望な道筋であるとみなされていた。

 新しい生物をつくるのに必要な情報を伝達する物質の概念は、まずネーゲリの著作のなかに現れた。ネーゲリが「イディオプラズム」と呼んだこの物質は、「ミセル」と呼ばれる単位から成り、さまざまな形質に対応する「アンラーゲ」の集合であるとされた。
 1870年代までに、顕微鏡の改良や新しい染色技術の登場によって、細胞核への関心が高まった。70年代末から80年代初頭には、有糸分裂や減数分裂における染色体の動きが観察された。減数分裂についてのファン・ベネデンの業績を知ったヴァイスマンは、生殖質の伝達に関する自身の予想が染色体の動きと一致していることに気づき、「イド」と呼ばれる遺伝情報をもった物質的構造の単位が染色体に並んでいると論じた(イドはより小さな「デテルミナント」から成るとされた)。しかも、遺伝情報の単位は有性生殖によって結合したり組み換えられたりするが、融合することはないと考えた。さらに、変異は生殖質のなかで起こる変化によってのみ生じるものであるとして、ラマルク主義やパンゲン説を否定した。こうしてヴァイスマンの生殖質説は、ゴルトンのハードな遺伝の概念に相当するものになった。しかしヴァイスマンは、ラマルク主義やパンゲン説を否定し、記憶と遺伝の類比を破壊することが、反復説や、成長と遺伝を同じ研究分野のもとに統合することを退けることになると気付いていなかった。ヴァイスマンは、新しい伝統の先駆者というよりも、古い伝統の最後の代表者であった。それにもかかわらず、ヴァイスマンの生殖質説は、厳格な遺伝主義の見方が出現する舞台を用意したのである。

 ヴァイスマンの生殖質説の最後のバージョンに重要な影響を与えていたのが、ド・フリースの細胞内パンゲン説である。粒子が体じゅうを行き来するというダーウィンの考え方は受け入れられないが、遺伝の単位は細胞内に存在すると考えることでパンゲン説は救えると、ド・フリースは考えていた。しかし、ダーウィンにとっては重要であった、体の各部分からジェミュールが芽を出し、集まって細胞になるというアイデアは失われてしまった。ド・フリースのパンゲンは、原形質の物質的構造に記号化されている分離した単位であり、それぞれひとつの遺伝形質に対応している。パンゲンは細胞核に存在し、細胞分裂によってのみ増殖するが、細胞核から原形質に出て活動することができるとされた。デテルミナントの数をかなり多く想定したヴァイスマンは不連続的変異に特別な関心をもたなかったが、パンゲンの数を比較的少なく見積もったド・フリースは、交配実験によってパンゲンの伝達に関する洞察が得られるかもしれないと考え、「メンデルの再発見」につながった。

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