2020年1月10日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 3

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 3.

第3章「進化と遺伝」

 標準的な進化論史・遺伝学史は、選択のメカニズムが機能するためには遺伝が融合的ではなく粒子的であることが必要になるという前提に基づき、遺伝学はダーウィンのジグソーパズルに残っていた最後の穴を埋めたピースだったのだとみなす。しかし、ダーウィン主義は融合遺伝のモデルでも機能する。ダーウィンの進化論の受容を阻んだ最大の障害は、遺伝学の欠如ではなく、進化論者たちが発展論的な理論のほうを好んだことであった。

 ダーウィンの理論が当初評判になったのは、皆が自然選択による進化を受け入れたからではなく、進化が起こることについての新しい一連の証拠と革新的な理論を提示して、発展主義の支持者たちを動かす触媒の役割を果たしたからであった。ダーウィンの主だった擁護者のなかにも、ハクスリーなど、選択のメカニズムにはほとんど関心を示さなかった者たちがいた。ヘッケルはさらに発展主義的なアプローチをとった。ラマルク主義の採用によって、反復説はよりもっともらしくなった。1870年代にはすでに、コープやハイアットなどの古生物学者が米国に新ラマルク主義の学派をつくっていた。1890年代には、反ダーウィン主義の運動が世界中に現れた。

 ダーウィンの理論は、胚は体の各部分でつくられた粒子に由来するという、かつての機械論の考え方である「出芽」モデルを保持していた。1850年代の細胞理論の発展にもかかわらず、ダーウィンはこの考え方を変えなかった。1860年代までに生物学者の多くは、新しい細胞はすでにある細胞の分裂によってのみ生まれるのだと認識し、そのような形で細胞が形成されるとは考えなくなっていたので、パンゲン説は強い批判を受けた。
 ウォレスや後の生物測定学派が示したように、融合遺伝は自然選択と両立可能であり、ジェンキンの自然選択説批判は完璧ではない。自然選択説の普及を阻んだのは発展論的な世界観であった。ダーウィンが同時代人たちに発展論的進化観を捨てさせることができなかったのは、部分的にはダーウィン自身が生殖の発展論的見方に頼っていたせいでもある。ダーウィンは、変異がランダムであることを十分に認識していたにもかかわらず、新しい形質の出現を個体の成長や生殖の過程における変化の結果とみなしていた。

 生殖や成長が生理学的なレベルでどのように起こるかという問題を脇に置き、発展論的世界観を破壊する道を開いたのはゴルトンである。ゴルトンはパンゲン説を信用せず、胚種は親によって作られるのではなく、変わらないまま世代間で受け継がれるのだと考えた。ゴルトンの祖先遺伝の法則は、親の形質は子のなかで融合するが胚種の物質自体は融合しないというもので、メンデル主義的な粒子遺伝の概念への中間地点にあたる。こうしてゴルトンは「氏か育ちか」論争における遺伝主義の立場を確立し、優生学運動を創始した。
 ゴルトンは、祖先遺伝によって逸脱的な形質はならされ、それぞれの種や品種はその元来の型を保つと考えた。選択では重要な変化をもたらすことはできず、進化は跳躍によってまったく新しい型が出現することによってのみ起こる。さらにゴルトンは、変異はさまざまな形質が遺伝され、有性生殖を通して組み換えられることで集団のなかで生じるのだとして、変異と遺伝を対立する力ではなく同じ現象の異なる側面として捉えた。このように、変異を集団の性質とみなす視点はダーウィンの選択説に含意されていたが、ダーウィンが変異の源を発生モデルに求め続けたことでぼやかされていたのである。ゴルトンのハードな遺伝の概念はラマルク主義や成長と進化の類比を排除し、変異は本質的にランダムだというダーウィンの主張を強化することになった。

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