2020年1月17日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 6

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 6.

第6章「メンデル主義の出現」

 「メンデルの再発見」についての理解は見直しが進んでいる。Sternは、チェルマクが1900年の論文においてメンデルの法則を理解していなかったことを指摘した。Olby(1985)によれば、チェルマクは前メンデル主義的な遺伝概念のなかで、現在ではメンデル主義的現象とされるものを理解したのである。

 一方、コレンスが1890年代後半にダイズ雑種の調査で3:1の分離比に出会ったことは、広く認められている。コレンス自身は、細胞学の進歩のおかげでペアになった形質について考えることができたのだと述べており、ゴルトンやヴァイスマンの遺伝主義が、多くの世代を経ても変わらない形質に対しての注意を惹きつけたのだと思われる。しかしOlby(1985)は、ヴァイスマンがメンデル主義を拒否したことを指摘し、細胞学それ自体が助長したのは、ペアではなく多数の遺伝的単位というアイデアだったと示唆している。1900年までの一般的背景における変化が何であれ、ペアになった形質というメンデルの概念はなにかしら提供するものがあったのである。Olbyは、コレンスでさえメンデルの論文を読むまでは、実験結果の完全な重要性を正しく評価できていなかったと示唆している。実際、コレンスはド・フリースの最初の報告を読むまで、自分の論文の執筆はゆっくりとしか進めていなかった。形質のペアが複数の世代にわたってどのように振る舞うかに関するメンデルの分析は、どの再発見者によるものよりも優れており、最初の遺伝学者たちの考えを形作る上で決定的な役割を果たしたのである。コレンス自身は、メンデルの法則が普遍的に成り立つことを疑い続けていた。

 多くの研究が、ド・フリースが1900年の二つの論文で展開した解釈はメンデルの説明に大きく依存しており、ド・フリースは分離の現象を独立に発見してはいなかったことを主張している。Meijer(1985)によれば、ド・フリースはおそらく数年前にメンデルの論文を見ていたが理解できず、1900年に読み直してようやく、それが自身の実験結果を分析する新しい方法を提供していることに気付いたのである。1890年代におけるド・フリースの研究は変異の性質に関するもので、パンゲンの数の変化による変異と、新しい種類のパンゲンの出現による、種を形成する変異を区別していた。新しい形質が単位として形成されることを実証するために、ド・フリースはある種の一つの形質が交雑によって別の種に移動できることを示そうとしていた。ド・フリースは1900年にメンデルの術語を採用しはじめたが、その後すぐに放棄し、メンデルの法則は新しい形質の起源という問題に光を投げかけないので重要性は低いと論じるようになった。多くの生物学者は、不連続的な進化には不連続的な遺伝のモデルが必要だと感じていたので、ド・フリースの突然変異説はメンデル主義の運動を助けることになったが、ド・フリース自身は自分が発見した突然変異がメンデルの法則に従うとは考えていなかった。

 はじめ進化形態学者であったベイトソンは、『変異研究のための資料』(1894)でダーウィン主義の進化論を攻撃し、新しい形質は生物学的なプロセスによって生み出され、その生物にとって役に立つかどうかにかかわらず永続するのだと示唆した。変種を分け隔てる単位形質がどのように振る舞うのかを理解しようとして、ベイトソンは変種の交雑実験をおこなっていた。ベイトソンはメンデルの比率を認識してはいなかったが、諸形質を別個の単位として考える準備ができていたのである。妻による伝記によれば、ベイトソンはメンデルの論文をロンドンへの電車のなかで読み、王立園芸協会での講義に取り入れたのだというが、Olby(1987a)によれば、このときベイトソンが読んだのはド・フリースの最初の論文であり、メンデルの仕事についてはまだ知らなかった。ベイトソンのメンデル主義への転向は、その後の2年間で漸進的に進んだプロセスであった。
 1902年の『メンデルの遺伝原理』では、メンデルの論文を翻訳するとともに、その法則が普遍的に成り立つことを論じた。同じ年にallelomorphの語(のちにアレルalleleと略される)を生み出し、1905年には遺伝学geneticsの語を生み出した。そしてパネットらの追従者とともに、メンデル主義を適用できる現象を拡大する一連の実験をおこなった。しかし、ケンブリッジにおける立場は不安定で、結局はジョン・インズ園芸学研究所に移った(パネットはケンブリッジで最初の遺伝学教授となった)。Sapp(1987)は、遺伝学という新しい科学を確立しようとしたベイトソンの努力は、生物学の伝統的な領域の権威に対する挑戦であったと論じている。遺伝学を実験的科学として提示することで、他のバックグラウンドをもつ生物学者たちは遺伝の領域から締め出されることになった。生物測定学派との論争は、このような縄張り争いの産物であった。『遺伝学の問題』(1913)でもダーウィン主義への攻撃を継続したが、ド・フリースの突然変異説で提唱された種類の跳躍には疑いを抱くようになったことも示している。翌年の講演では、進化において真に新しい遺伝的形質が生み出されることはないと示唆した。新しい形質にみえるものは、それを覆い隠していた遺伝子が退行的突然変異によって破壊されたことによって生じているというのである。しかしベイトソンの追従者たちはそのような留保をつけず、パネットの『メンデル主義』(1907)は、跳躍的進化をもたらす新しい形質の源として突然変異を公然と支持した。

 一方、ピアソンとウェルダンはゴルトンの祖先遺伝の法則を擁護し続け、メンデル主義者の主張を否定していた。ピアソンは実証主義の哲学を採用していたので、遺伝に関して何らかのメカニズムを仮定するあらゆる試みに懐疑的であった。それに対してベイトソンは、より単純な帰納主義の方法論を採用していた。Coleman(1970)によれば、ベイトソンは「保守的な」哲学的立場とよばれていたものも採用していた。Mackenzie(1982)によれば、これはすべてを集団の観点から考えようとする生物測定学に対する疑念につながっていた。
 ベイトソンは、各々の形質のペアは細胞核のなかにあるペアになった粒子によって支配されているという説明を拒否していた。Coleman(1970)によれば、ベイトソンは唯物論の反対者であり、細胞全体に行き渡った波かなにかの物理的機能が遺伝情報の伝達を担っているのだという全体論的な見方を好んだのだという。また、成長する生物のなかで形質がどのように生み出されるかを遺伝の完全な理論が説明するという望みも捨てていなかった。

 フランスの生物学者たちは、ベルナールやパストゥールといった生理学者や微生物学者によって確立された概念的枠組みのなかでメンデル主義を評価し、新しい科学を確立しようとしなかった。それゆえ、フランスに重要な古典遺伝学者は現れなかったが、のちに分子生物学の出現に際して重要な役割を果たす学者たちが現れた。ドイツでは、メンデル主義の状況はフランスよりは良かったが、染色体説の受容にはつながらなかった。フランスとドイツの生物学者たちは、遺伝の完全な科学が形質の生産を説明するという希望を諦めず、細胞質が重要だと主張して染色体の強調を拒んだ。

 ヨハンゼンは、表現型と遺伝型の区別によって、生物学の独立した領域として遺伝学を確立するのに大きく寄与した。しかし、ヨハンゼンは当初、これらの術語を個体ではなく集団の観点から定義しており、その後意味が変化している。ヨハンゼンは自家受精する豆を用いていたため、メンデルの分離の現象にはあまり関心をもたなかった。固定された遺伝型としての純系というヨハンゼンの概念は、種は明確に定義された形態に基づくという古い類型学的な見方を反映しているように思われる。ヨハンゼンはベイトソンと同じく、遺伝子を染色体の物質的粒子とみなしたがらなかった。ヨハンゼンにとって、遺伝子は永遠に観察できないものであり、おそらくは生物全体のなかの安定したエネルギーの状態から成るものであった。ベイトソンとヨハンゼンはどちらも、メンデル主義を跳躍的進化に結びつけたが、遺伝的伝達を物質的粒子の観点から視覚化しようとしなかった。これは、19世紀の生物学と古典遺伝学の中間段階を代表している。

 次の段階となる染色体説との結びつきは、米国の生物学で特異に起こった出来事であった。米国では、生物測定学との論争は起こらなかった。ハーバードでは、ベイトソンに触発されたキャッスルが、ハツカネズミの白化が劣性形質として振る舞うことを示した。しかしキャッスルはすぐに、メンデル主義の単位形質は完全に別個ではなく、互いに混合することがあると論じた。同僚のイーストは、形質は必ずしも単位とみなせないが、それは単一の形質に対して複数のメンデル主義的ファクターが影響しているからだと論じた。しかしイーストも、遺伝子が一つの物質的存在に合致するという考えには抵抗した。イーストの見方では、遺伝子の概念は交配実験の結果を分析するのに使われる数学的で抽象的な概念にすぎないのである。
 モーガンはダーウィン主義を批判し、新しい形質は跳躍かド・フリース的な突然変異によって、有益かそうでないかにかかわらず確立されるものだと考えていた。また、1910年まではメンデル主義も批判し、染色体説も形質が生み出される発生のプロセスを無視している前成説だとして批判していた。

 ド・フリースなどの例外を除き、多くの初期のメンデル主義者は、予め形成されている遺伝粒子という概念に敵対的であった。また、モーガンなどの発生学者は、遺伝的伝達をそれ自体で研究する価値のある領野だとみなしていなかった。発生学と遺伝学の区分は現れはじめたばかりで、原理的に定義されていなかった。1910年頃に、染色体の振る舞いはメンデルの法則で説明される効果と並行関係にあるという認識を通して、この区分が明確化しはじめ、古典遺伝学の出現がはじまる。

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