2017年2月27日

「自然選択以外に種の起源の科学的説明はなかった」というのは神話 Rupke, “Myth 13”

Nicolaas Rupke, “Myth 13: That Darwinian Natural Selection Has Been “the Only Game in Town,”” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 103–111.

神話13「ダーウィンの自然選択は“唯一の選択肢”だった」

ドーキンスに代表される多くの論者たちが、宗教的な種の個別創造説を除けば、自然選択に基づくダーウィンの進化論が採用可能な唯一の選択肢であるかのような議論をしてきた。しかし、進化論をダーウィンの理論と同一視できるというのは神話である。この神話は、構造主義 structuralism(あるいは形態主義 formalism、筆者独自の概念?)の進化論の伝統を無視している。たとえば、この神話から生じている代表的な誤解として、オーエン(1804–1892, ロンドン自然史博物館の設立者)が創造論者だというよく広まった認識がある。実際には、オーエンはダーウィン主義者ではなかったが、進化論者ではあった。構造主義的進化論は、『種の起源』(1859)以前にも以後にも根強く存在した。

構造主義の進化論では、生命の起源や多様な形態の起源は、機械論的であり物理的もしくは化学的な力の作用に帰される。構造主義の伝統は18世紀後半に始まり、自然発生というプロセスを通じて、生命の進化の歴史と、地球・太陽系・銀河・元素の進化の歴史を接続する議論がなされた。宇宙の歴史は、自然法則にしたがう物質の複雑化の過程として描かれ、生命の起源や種の起源は分子的な力に駆動されたプロセスとして理解された。こうした考え方を示した代表的な著作として、フンボルト(1769–1859)の『コスモス』(1845–1862)や、チェンバース(1802–1871)の『創造の自然史の痕跡』(1844)がある。また、生物の形態を説明するのには結晶学が持ち出された。ヘッケル(1834–1919)に代表される学者たちは、生物の形態を数学的に説明できることに注目した。ほかにも、ブルーメンバッハ(1752–1840)やオーケン(1779–1851)、トレヴィラヌス(1776–1837)、ゲーテ(1749–1832)といった人々が構造主義者であった。

では、なぜ構造主義的進化論は忘れ去られて、ダーウィニズムが唯一の進化論であるという理解が浸透したのだろうか。その原因は、構造主義者のほとんどがドイツ人だったことにあると考えられる。ナチス時代には、ゲーテやフンボルトといったドイツのロマン主義や観念論がもてはやされた。第二次大戦後、構造主義的進化論はナチスのイメージと結び付いてしまったことで衰退した。逆に、ダーウィニズムは戦後のドイツにおいて、ナチスのイメージを拭うために好まれたのである。さらには、マイアの『生物学思想の発展』(1982)に代表される、ダーウィン産業の研究がダーウィニズムの存在感をより高めていった。

【コメント】
進化論史の全てがダーウィン(とその「先駆者」)から始まっているかのような歴史記述はおかしい、というのは真っ当な指摘だろう。進化論の歴史はしばしば、ダーウィンの時代には種の起源に関する理論は宗教的なものしか存在していなかったかのように説明されてきた。このような事態は、ダーウィン本人やダーウィンを英雄視した人々の言い分を鵜呑みにした英語圏中心のヒストリオグラフィーから生じている。英語圏の外に目を向ければ、同時代にもダーウィンとはまったく異なるタイプの非宗教的進化論が存在していた。「進化論=ダーウィン」という思い込みのために、交雑による新種の形成を実証しようとしていたメンデルさえもダーウィン主義者だと誤解されてきた。

しかし、本章における筆者の「構造主義(形態主義)的伝統」という概念が何を指しているのかは、いまいちよくわからなかった。この章で挙げられているような人々のあいだの影響関係も明らかにされていない。彼らをこの言葉で一括りにするのは果たして適切なのだろうか。
 

2017年2月16日

「ラマルクの進化論は主に用不用の遺伝」というのは神話 Burkhardt, “Myth 10”

Richard W. Burkhardt Jr., “Myth 10: That Lamarckian Evolution Relied Largely on Use and Disuse and That Darwin Rejected Lamarckian Mechanisms,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 80–87.

神話10「ラマルクの進化は主として用不用に基づいていた。また、ダーウィンはこのラマルクのメカニズムを拒絶した」


生物学の教科書においてラマルク(1744–1829)とダーウィン(1809–1882)の進化論が比較されるとき、ラマルクの理論において主要なメカニズムは獲得形質の遺伝(inheritance of acquired characters)であり、ダーウィンはこれを拒絶して代わりに自然選択を唱えたのであるかのように記述されている。しかし、これらは正しくない。獲得形質の遺伝、すなわち用不用の遺伝的影響は、ラマルクの理論における生物の変化の主要な要因ではなかったし、ダーウィンは用不用の影響の遺伝を固く信じていた。

ラマルクはパリ自然史博物館で無脊椎動物を担当する教授となり、それらを分類するうちに、外的形態よりも内部器官に注目するべきだと考えるようになった。そして内部器官によって区分した分類群は、複雑性が高まっていくひとつながりの系列として整理できることに気づいた。ラマルクは『無脊椎動物誌』(1801)において、多様な動物が存在することの「二つのまったく異なった原因」に言及する。「第一の主要な原因」は、動物を前進的に複雑化させる生命力であり、第二の原因は、多様な環境によって生じる用不用の違いであった。ラマルクは『動物哲学』(1809)において、第二の原因を二つの法則によって定式化しているが、これはしばしばラマルクの理論全体を表現したものとして誤解されている。

ラマルクは獲得形質の遺伝を自分が考えたとも主張していないし、それを実験的に示そうともしていない。用不用の遺伝という考え方は、ラマルクの時代においては当たり前のこととされていたのである。

ダーウィンは、進化の最も主要な要因は自然選択であると考えていたが、獲得形質の遺伝も副次的な要因として固く信じていた。たとえば、家禽化されたアヒルが野生のカモに比べて小さな羽と大きな足の骨をもっていることや、洞窟に住んでいる動物が視力をもっていないことは、用不用の遺伝に帰された。そしてダーウィンは、『家畜と栽培植物の変異』(1868)においてパンゲン説を提唱し、獲得形質の遺伝をもたらす具体的なメカニズムを説明した。だが、ダーウィンはいつもラマルクの理論から距離をとるようにしていた。ダーウィンが用不用の遺伝とラマルクの名前を結び付けたのは、用不用の遺伝では説明できないが自然選択であれば説明できる例を持ち出してラマルクを批判したときだけであった。

【コメント】
(1) ラマルクが用いていた言葉は「獲得形質の遺伝」ではなく「獲得物の転移」。「形質 character」および「遺伝 inheritance」という観念は、ラマルクの時代の生物学にはまだ明確な形で存在しなかった。ラマルクには「適応 adaptation」の概念もない。

(2) 表題の神話がいかにして生まれたのか、という問題はこの章でほとんど扱われていない。ヴァイスマン(1834–1914)が1880年代に生殖質連続説を唱えたことで、はじめて「獲得形質の遺伝」が問題となった(バルテルミ=マドール『ラマルクと進化論』第4章)。

(3) この章は用不用の遺伝の問題に焦点を絞っているが、よくいわれる「ラマルクが進化論の先駆者」という捉え方自体、神話めいたところがあるのではないか。ダーウィンの進化論とラマルクの変移説はまったく異なる。ダーウィンの進化論は(ラマルクよりもむしろ)キュヴィエ(1769–1832)に多くを負っているというフーコーの議論(「生物学史におけるキュヴィエの位置」、『思考集成III』収録)も示唆に富んでいる。

2017年2月14日

「激変主義者と斉一主義者の対立」というのは神話 Newell, “Myth 9”

Julie Newell, “Myth 9: That Nineteenth-Century Geologists Were Divided into Opposing Camps of Catastrophists and Uniformitarians,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 74–79.

神話9「19世紀の地質学者たちは、激変主義者と斉一主義者という対立する二つの陣営に分かれていた」

地質学における論争を説明する方法として、その論争の参加者たちを対立する二つの陣営に分けるやり方が好まれてきた。だがこのような方法ではしばしば、参加者たちの考え方が誤解されたり極度に単純化されたりしている。

18世紀におけるヴェルナー主義者とハットン主義者の対立という説明もその一例である。この説明では、前者はヴェルナー(Abraham Gottlob Werner, 1749–1817)の、岩層は海洋における沈殿物によって形成されたという主張に賛成し、後者はハットン(James Hutton, 1726–1797)の、岩層は地下の火によって形成されたという主張に賛成していたということになっている(水成説論者 Neptunists と火成説論者 Vulcanists)。だが、実際のヴェルナーやハットンの考え方はこのように単純化できるものではないし、ヴェルナー主義者やハットン主義者とみなされてきた人々は、実際には各理論における地層形成の説明よりも実践的有用性に興味をもっていた。

ハットンの中心的概念のうち、三つのものが後の地質学に深い影響を与えた。第一に、地質学的な変化は現在観察できるメカニズム(現在因 actual cause)で説明されなければならないという「現在主義 actualism」、第二に、地質学的説明は現在観察されるのと同じ速度の変化に限られるという「漸進主義 gradualism」、第三に、現在主義と漸進主義に基づいて地質学的記録を説明するのに必要となる膨大な長さの「時間」である。

これらの考え方はすべて、ライエル(Charles Lyell, 1797–1875)の『地質学原理』(1831)において中心的な役割を果たした。ライエルは、過去の地質学的変化はすべて、今日の世界で観察されるのと同じ種類かつ同じ度合のプロセスで説明されると主張した。ライエルはレトリックを駆使して、現在主義と漸進主義を「斉一性 uniformity」という概念に一体化させた。

1832年、『地質学原理』に対する書評でヒューウェル(William Whewell, 1794–1866)は「斉一主義者 uniformitalians」と「激変主義者 catastrophists」という分類を導入した。ここでは激変主義者は、地史のなかで地質学的変化が異なる速度で進んできたことを主張する人たち(=現在主義ではなく漸進主義の反対者)とされていた。現在主義そのものを否定する人はほとんどいなかったのである。一方、ライエルに好意的だったヒューウェルやコニベア(William Daniel Conybeare, 1787–1857)も、ライエルの漸進主義を批判していた。つまり実際のところ、「激変主義者」とみなされてきた人々と、「斉一主義者」とみなされてきた人々は、多くの点において一致した意見をもっていたのである。

斉一主義をライエルや「科学」と同一視し、激変主義を宗教的信仰に基づいた反ライエル的な立場とみなす見方は、ライエルの批判者たちを極度に単純化し、誤解している。実際の対立は、科学と宗教のあいだで起こっていたのではなかった。

【コメント】
付け加えていえば、ハットンやライエルの議論できわめて重要な要素として「定常主義」(=地史には方向性がない!)がある。ライエルの巧妙さは、定常主義(世界観に関する主張)と現在主義(科学的方法論に関する主張)をうまく組み合わせたところにある。筆者のいう漸進主義は、現在主義を地質学的プロセスの種類だけでなく度合にも適用したものであり、「強い現在主義」と捉えることもできる。ライエルの批判者たちは「方向主義(=地史には方向性がある!)」の立場をとっていて、ライエルの定常主義と強い現在主義をどちらも批判していた。
 

「メンデルは孤独な遺伝学の先駆者」というのは神話 Kampourakis, “Myth 16”

Kostas Kampourakis, “Myth 16: That Gregor Mendel Was a Lonely Pioneer of Genetics, Being ahead of His Time,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 129–138.

神話16「グレゴール・メンデルは時代を先取りした、孤独な遺伝学の先駆者だった」

現代の遺伝学の知識をもっている我々は、しばしばメンデルの論文に過剰なものを読み込んでしまう。メンデルは遺伝因子についてではなく、形質について表記しているという点に注意する必要がある。厳密に言えば、メンデルは「分離の法則」も「独立の法則」も発見していない。さらに言えば、遺伝が粒子的であることも発見していない。

メンデルは遺伝の一般理論ではなく、異種交雑で新種は生まれるのかという問題に取り組んでいた。当時、遺伝のメカニズムは生物学の中心的な問題の一つであり、ダーウィン、スペンサー、ゴルトン、ネーゲリ、ヴァイスマン、ド・フリースといった人々が取り組んでいたが、メンデルはこのようなグループの外部にいた。実際、メンデルの論文に「遺伝」という言葉は一度もあらわれていない。

1900年以降におけるメンデル論文の急速な受容は、新しい概念的枠組みが発見された結果である。ゴルトンとヴァイスマンがハードな遺伝という考え方をつくり上げており、また細胞学者たちが形質の発現に関係する粒子が細胞内にあるという見方を支持する証拠を提供していた。

メンデルを英雄視する見方は、実際の歴史を歪めているだけでなく、科学が一般的にどのようになされるかという理解をも歪めている。
また、メンデルの実験はブルノの農業的・社会経済的文脈と関係していた。科学的な問いは、理論的というよりも経済的・技術的な要求から生じることも多いのである。

種概念の本質主義物語を覆す Wilkins, Species: A History of the Idea, Preface & Prologue

John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. vii–xii; 1–8.


● Preface

この本の主要な標的は、過去50年間にわたって科学者たちによって築き上げられてきた本質主義(essentialism)の物語である。哲学者は歴史を書くことを好まないし(好むとすれば合理的再構成のようなもの)、歴史家はインテレクチュアル・ヒストリーを書くことを好まないのだが、哲学者も歴史家も書かなければ科学者が書いてしまうのである。本質主義物語を普及させたのは、主にエルンスト・マイア(Ernst Mayr, 1904–2005)であった。

種概念の歴史がとりわけ重要であるのには理由がある。一般的に言って、科学者たちは分野によって異なる距離で「転がってくる霧の壁(rolling wall of fog)」に追われている。たとえば医学生物学(medical biology)であれば、壁との距離は約5年であり、それ以上前の業績は参照されなくなる。しかし分類学は特異な分野であり、壁との距離が例外的に長い。それゆえ、「種とは何か」という問いは歴史的な性格を帯びるのである。

本質主義物語によれば、生物学的分類群については二種類の基本的な考え方がある。一つ目の立場はプラトンおよびアリストテレスに由来し、それによると、あるタイプに属するメンバーは特定の必要十分な形質のセットをもっていることによって定義されるのであり、それらの形質は固定されていて変化することがない。この考え方は、本質主義、類型学的思考(typological thinking)、形態学的思考(morphological thinking)、固定主義(fixism)などと呼ばれている。もう一方の立場では、分類群は変わり得る形質をもった生物の集団であり、その集団はべつの分類群に変容することもある。この立場は集団思考(population thinking)と呼ばれる。

だが、本質主義物語は間違っている。私はこの誤りを、概念史(conceptual history)の方法によって解消したい。私の主張は三点にまとめられる。第一に、本質主義物語は論理的伝統についての誤読に基づいている。論理的種の形相的定義と生物種の質料的形質のあいだには、アリストテレス以来ずっと明確な線引きがされていた。第二に、いつであれ生物種は発生力(generative power)を含むものとして理解されていた。種に関する現在の考え方も、この長い伝統のなかにある。第三に、種の固定性、本質、タイプは、互いに分離された異なる概念である。なお、本質主義が生物学の哲学で攻撃対象となった背景には、ポパーによる方法論的本質主義批判があったと考えられる。


● Prologue

受け入れられた見方


生物学者たちのあいだで受け入れられてきた本質主義物語を代表する論者として、古生物学者のシンプソン(George Gaylord Simpson, 1902–1984)、マイア、生物学哲学者のハル(David Hull, 1935–2010)を挙げることができる。彼らは共通して、以下のような物語を描いている。プラトンはイデア(form)あるいは種(eidos)を、本質をもつものとして定義した。アリストテレスはこれを引き継いで、類(genos)の本質をすべての種が共有するように類を種に分ける方法をつくり上げた。これに基づいて、リンネは種を一定不変で本質主義的なタイプにした。ダーウィンはこの本質主義を乗り越えた。以降のナチュラリストたちは、遺伝学の影響下で生物学的種概念を発見し、種は本質ではなく祖先を共有する集団となった。集団思考は、本質主義に取って代わってきた。

受け入れられた見方の不十分さ

受け入れられた見方はまったく間違っている。実際には、生物種に関する哲学的論点で近代に問題となったものはどれも、アリストテレスからリンネに至る2000年のあいだに既に現れていた。18世紀以降、種概念に関して本当に新しい概念的要素はほとんど登場していない。また、受け入れられた見方では、普遍論争や大いなる存在の連鎖(Great Chain of Being)が無視されている。類型学と本質主義も結びついていたわけではなく、類型学は様々な点でマイアの集団思考と一致していた。

2017年1月12日

アガシーの氷河説はいかなる試みだったか/氷河説の受容はなぜ遅れたのか  Rudwick, “The Glacial Theory”

Martin J. S. Rudwick, “The Glacial Theory,” in The New Science of Geology: Studies in the Earth Sciences in the Age of Revolution (Aldershot: Ashgate, 2004).
※ アガシー『氷河に関する研究』(1840)の英訳(1967)に対する書評。1970年発表。

 アガシーの氷河説の重要性は、今なお十分に認識されていない。その原因の一つは、地質学史家たちがライエルの引いた分断にいまだに洗脳され続けており、その分断のもとでは氷河説は「斉一説」と「激変説」のどちらにもしっくり収まらないことにある。こういった用語は、歴史的分析の道具としては放棄すべきである。
 英訳版に前書きを書いたCarozzi教授は、氷河の作用は斉一説の立派な実例であり証拠も十分だったのにもかかわらず、フンボルトやフォン・ブーフやエリ・ド・ボーモンのような地質学者たちが強硬に反対したのは不思議だと述べている。実際、「氷河期」理論の完全な受容には、アガシー『氷河に関する研究』(1840)の出版後20~30年がかかっている。
 この問題に答えるためには、まず斉一説という用語を明確にする必要がある。ホーイカース教授が指摘したように、斉一説は、地質学的研究の方法としての現在主義と、地史は定常的パターンを維持してきたという科学理論(本来の意味での斉一説)に分解することができる。Carozzi教授のいう「斉一説」とは、前者の現在主義のことを指している。実際、ライエルを含む多くの地質学者たちが、アガシーの現在主義的研究に対しては好意的であった。それにもかかわらず彼らは、アガシーの結論を受け入れようとはしなかったのである。

 Carozzi教授は、氷河説の受容の遅れの原因を、巨大な洪水によって巨礫が移動したという古い信念が一般の人々や科学者たちのなかに深く植え付けられていたという点に求めている。ここで注意しておくべきなのは、洪水説について考えるときには、ライエルによるバイアスのかかった記述を乗り越える必要があるということだ。たとえば、聖書の洪水を地質学的洪水と同一視したバックランドを典型的な洪水論者とみなすのは、イングランドに偏った視点である。バックランドは、地質学的洪水を認めていた人々からさえも、広く批判されていた。また、1820年代頃からは大洪水も局地的であり複数回起こった出来事だと考えられるようになっていた。
 1830年代において洪水説は、科学的地位が高く説明力のある学説であった。大洪水は厳密な意味での現在因ではないが、現代において観察できる現象の度合を強めたものであり、多くの地質学者が採用していた穏健な現在主義とは矛盾しなかった。大洪水の原因も、1830年代にはエリ・ド・ボーモンの理論における山の隆起によって説明されていた。洪水説との対立は、たしかに氷河説の受容が遅れた原因を部分的には説明する。

 だが筆者は、より重要な原因は、(シャルパンティエが自ら述べていたように)当時の定向主義的総合の気運との対立にあったと考える。この総合は、当時の地質学の状況を説明したライエルの説得力ある解釈のために現在ではその存在が見えにくくなっているが、ビュフォンが普及しフーリエが正当化した地球の冷却という考え方を中心にして、地質学から生物学までの成果をまとめ上げようとするものであった。この気運は、ライエルの登場によっても衰えなかった。氷河説は最近の歴史よりもずっと寒い時代を想定するために、定向主義的総合と矛盾せざるを得なかった。

 アガシーは当初シャルパンティエの論文に懐疑的であり、1836年に転向するものの、あくまでアルプスにある迷子石に関してシャルパンティエの見方に同意したに過ぎなかった。アガシーは、ジュラ山脈の迷子石に関してはシャルパンティエとは異なる説明をした。氷河ではなく、巨大な静止した氷床が存在していたと考えたのである。これは何故だろうか。
 ここで念頭に置いておかなければならないのは、アガシーは化石魚類の研究をしていたのであり、地質学と生物学の総合という、この時代に特徴的な目標をもっていたということである。アガシーはキュヴィエの影響を強く受けていたので、過去の動物たちはいずれも住んでいた環境によく適応していたが、なんらかの原因で絶滅したと考える。もし単に氷河が少しずつ拡大していったのであれば、動物たちは南へ移住できたはずなので、絶滅が説明できない。グローバルな規模での突然の氷河期の到来が必要だったのである。そして気温上昇によって氷河期が終わると、新たな環境が出現し、そこに適した動物が現れると考えた。
 しかしアガシーは、自らの説を地球の冷却という理論とも調停しようとしていた。そのためにアガシーが考えだしたのが、気温は氷河期が到来すると急激に下がり、その終わりと共に上昇するが、もとの水準にまでは戻らないというモデルである(図 p.150)。

 バックランドが氷河説に転向したのは驚くべきことではない。バックランドはアガシーと同様、洪積世の動物の絶滅を説明する激烈なメカニズムを求めていたからである。
 バックランドはライエルが氷河説に転向したとアガシーに報告したが、これは楽観的な見方に過ぎていただろう。ライエルが現在主義的でないアガシーの巨大氷床の概念を受け入れたとは考えられないからである。ライエルは、現在因として認められる局地的な氷河については熱心に受け入れていた。しかし、定向主義者たちと同様に(ただし別の理由で)、大規模な気候変動を受け入れることはできなかったのである。
 非常にゆっくりとした「氷河期」の受容は、定向主義と斉一説のあいだにあった鋭い分断の変化を反映している。どちらも、元々想定していたよりも大規模で激烈な気候の変動を受け入れていかなければならなかったのである。

地質学、激動の時代の終わり Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 36

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 534-52.

Ch. 36 未来のために蓄える(1840–45)

36.1 更新世氷河期
アガシーが『氷河に関する研究』(1840)を出版した数か月後、シャルパンティエは『氷河に関する試論』(1841)を出版した。名声はアガシーに奪われたが、最終的に受け入れられた氷河説はシャルパンティエのほうに近かった。ダーウィンは1842年に北ウェールズの丘を再訪し、以前見えなかったものが見えるようになったとして局地的な氷河説には納得した。この頃、北極と南極の探検が進み、報告や図像が届いたことは氷河説に有利に働いた。

36.2 フィリップスとグローバルな地史
地史を化石によって区分するプロジェクトを進めたのはフィリップスであった。フィリップスは1841年に、化石に基づいて古生代・中生代・新生代という三区分とその下位区分を提唱した。一方、カンブリア紀やシルル紀やデボン紀といった区分は、岩石に基づいており局地的なものに過ぎないとして拒否した。読者は、フィリップスの三区分を、人間の歴史における古代・中世・現代と平行関係にあるものとして理解した。

36.3 アガシーと生命の系譜学
生命の歴史に方向性があることはますます明確になっていた。ライエルはこれを疑い続けていたが、そのような立場をとっていたのはライエルと、せいぜいダーウィンぐらいであった。アガシーが描いた魚類の系譜図でも明らかになったように、生命は時代を下ると共に多様化し、「高等」なグループが出現しているように見えた。これは、ラマルクの理論とも調和しない認識であった。

36.4 ヒューウェルの歴史的・因果的な科学

新たに誕生した科学を定義するのは、外部の大学者の仕事であった。ヒューウェルは『帰納的諸科学の歴史』(1837)と『帰納的諸科学の哲学』(1840)を著し、地質学を「古物学(palaeontology)」と「原因学(aetiology)」の結合した学問(palaetiology)として表現した。このような造語は広まらなかったが、地質学の科学としての地位は確立された。

アガシーによる氷河説の提唱 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 35

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 517-33.

Ch. 35 スノーボールアース?(1835–40)


35.1 アガシーのアルプス山脈「氷河期」
迷子石に関する第四の説明は、アガシーによって提唱された。アガシーはシャルパンティエに氷河の痕跡を紹介され、また友人の植物学者であるシンパーの影響も受けて、「氷河期」の考えに至った。1837年、アガシーはスイス自然科学協会の会長講演でこれを説明した。アガシーは、アルプス山脈の氷河がジュラ山脈まで到達していたというシャルパンティエの主張を否定する一方で、アルプス山脈の隆起よりも先に北極から少なくとも地中海沿岸までが氷に覆い尽くされていた時代があったのだと主張した。この状況でアルプス山脈が隆起したことで、静止した氷床が傾き、迷子石がジュラ山脈の山麓まで滑ってきたのだという。その後、気温の上昇によって氷床は溶け、一部に動く氷河が残り、それもやがて後退していったというのがアガシーの説であった。

35.2 氷河期を拡張する
1838年、アガシーはこの理論を学会で繰り返し宣伝したが、納得する地質学者は少なかった。しかし、当初はアガシーを批判していたベルン大学地質学教授のシュトゥーダーは、アガシーに同行して氷河の擦痕を観察したことで転向する。ただし、シュトゥーダーは氷河が極めて広範囲に広がっていたことを想定しており、規模の点ではシャルパンティエと、氷の性質の点ではアガシーと意見を異にしていた。

35.3 英国における氷河期
1840年、アガシーは化石魚類の研究のために英国に渡り、同時に英国の地質学者たちを氷河説に転向させようと試みた。すでにアガシーの発表を直接聞いていてそれに納得し始めていたバックランドの案内でスコットランドを調査し、氷河の痕跡を多く見つけることができた。また、グレン・ロイについても氷河による説明を提供することができた。バックランドの説得により、当初反対していたライエルすらも氷河説に転向した。そしてロンドン地質学会では、アガシー、バックランド、ライエルが発表を行った。しかし、そこに参加していたマーチソン、グリーノウ、ヒューウェルを含め、多くの地質学者はなお懐疑的であった。

2016年12月16日

ライエルを皮肉るデ・ラ・ビーチの風刺画 Rudwick, “Caricature as a Source for the History of Science: De la Beche’s Anti-Lyellian Sketches of 1831”

Martin J. S. Rudwick, “Caricature as a Source for the History of Science: De la Beche’s Anti-Lyellian Sketches of 1831,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。

 風刺画を分析することの重要性は歴史学一般では広く認められてきたが、科学史家たちは十分な注意を払ってこなかった。

 この論文で取り上げるのは、地質学者デ・ラ・ビーチ(1796–1855)が描いた、“Awful Changes” と題された風刺画(図1)である。この風刺画は、バックランドの地質学講義を題材にしていると思われてきた。しかしこの解釈では、バックランドの講義風景を描いた絵のなかにもこの絵が写り込んでいるという事実をうまく説明できない。そこでこの論文では、この絵はバックランドではなくライエルに対する風刺であるという解釈を示したい。

 この解釈の根拠となるのは、デ・ラ・ビーチが自身のノートに描きためていたいくつかのラフスケッチ的な風刺画である。前後に描かれたスケッチなどから判断して、これらはライエルの『地質学原理』第1巻の出版から1年以内に描かれたと考えられる。これらのラフスケッチは、“Awful Changes” を他の地質学者たちに回すまえに、予備的にさまざまなテーマを試していたものだと推測される。

 図3~5のラフスケッチはいずれも、ライエルと思われる人物が他人に色眼鏡や眼帯をつけさせるというテーマで描かれており、ライエルによる地質の観察は理論的前提によって歪められていることを示唆している。図6~7は、ライエルが定向主義的な気候変動の解釈に反対して、大陸の配置が極めて長い時間をかけて変化してきたと主張していたことに対する風刺となっている。図8も、ライエルが地質学的説明のために長大な年月を持ち出すことへの皮肉となっている。図9は、ライエルが沖積層だけでなく洪積層をも現在因だけで説明しようとすることを風刺している。図10は、ロンドンの地質学会の様子を風刺的に描いたものと推測されるが、どのキャラクターが誰に当たるのか、解釈が難しい。そして図12は、“Awful Changes” の下描きとなっている。

 このような一連のラフスケッチの中から登場してきた “Awful Changes” は、ライエルの提唱する地史が循環的なモデルであったことに対する風刺であると考えられる。

2016年12月10日

ライエルはなぜキングス・カレッジの教授を辞めたのか Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33”

Martin J. S. Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。

 ライエルは1831年4月に、28年創立のキングス・カレッジ・ロンドンの地質学教授に就任し、32年と33年の夏に地質学の講義をもったが、33年の10月に早くも辞職してしまった。従来の解釈では、ライエルの辞職は彼の意見が宗教的に異端であったためだと推測されてきた。また、ライエルはこの職を得るとき、自分の意見を正直に述べなかったのだともいわれてきた。

 この論文では、以上のような解釈はライエルの宗教的立場や社会的態度に関する疑わしい想定から生じていることを示唆する。ライエルの活動を「科学 対 宗教」という対立の観点から捉える見解は、宗教から分離され科学に導かれる社会の実現を目指した19世紀後半の論者たちによって生み出された。このような見解は、科学者と社会の関係をきわめて単純化している上、科学の活動を支えた物質的土台の問題や、科学者が自らの考えを広める際の社会的責任の問題を無視している。このような時代遅れのヒストリオグラフィーが放棄されれば、ライエルの活動に関して謎だと思われてきた事柄もすっきり理解することができる。

 ライエルがキングス・カレッジの教授に就こうとした背景には、聴衆を獲得する狙いや経済的な事情があったと考えられる。ライエルは最初セジウィックに接近し、ロンドンの主教でありキングス・カレッジの評議員でもあったブロムフィールドへの推薦を得た。台頭著しい地質学を組み込む必要性が認識されていたことや、有望な若い地質学者としてライエルの名前が既に知られていたこともあって、この推薦は受け入れられた。

 ブロムフィールドらは、科学的議論を妨げようとしていなかった。ただ、教職にある人間が組織の基盤を攻撃しないかを正当に心配していたのである。ランダフの主教であったコプルストンは、評議会のメンバーとしてライエルに(1)人類は地質学的に最近の時代に創造されたか、(2)それより後に全地球的な洪水があったか、という2点を確認した。ライエルは一つ目の点に対しては、種の個別創造なしで済ませるラマルクの仮説を『地質学原理』の続きで明確に批判するつもりであること、また最近の時代における人類の創造と矛盾する証拠はないことを説明した。二つ目の点に対しては、洪水が全地球を覆ったとは考えないが、人間が住んでいた地域が局地的な洪水に遭ったのだろうと答えた。コプルストンは返事で、一つ目の点に関しては満足したが、二つ目の点に関してはライエルの見解が大学の聴衆に与える影響を懸念していると伝えた。しかし、コプルストンは神学的にはリベラルな立場の人物であり、聖書直解主義を遺憾に思っていた。コプルストンはあくまで、科学的研究によってはっきりと確立される前に、早まって信仰を危機に陥れるような変化を聴衆に強制してしまうことに関して責任を感じていたのである。言い換えればコプルストンは、科学者がその権威を利用して、科学自体から厳密には推論できない結論を容易く引き出してしまえることを認識していたのである。人種や知性に関する現代の論争に置き換えて考えれば、このような危機意識は常識的である。

 コプルストンに対するライエルの返答は、ライエルの伝記作家によって不誠実だと非難された。しかし、ライエルがキングス・カレッジでの講義を反キリスト教的な議論に用いようとしたという証拠はない。バックランドの友人であり擁護者であったコニベアが、ライエルに対する留保を取り消すようにコプルストンに求めたことも、もしこの問題を地質学と創世記の対立として捉えれば不可解となる。結局、コプルストンは留保を撤回し、ライエルは正式に教授となった。

 しかし、ライエルは講義が始まる前から既に辞職を考え始めていた。ライエルが関心をもっていたのは主にお金と名声であり、教授としての仕事それ自体ではなかった。ライエルの講義は32年の5月に始まったが、初回の出席者は80名と、期待したよりも少なかった。初回の講義は大成功であったが、受講料を払ってそれ以降の講義に出席する人の数は少なく、ライエルは再び辞職を考え始めた。

 もともとキングス・カレッジでは女性も講義に出席できることになっており、ライエルは当初この方針に反対していた。だが、当時地質学は上流階級・中産階級の女性のあいだで人気があり、出席者のうちで女性が占める割合は高かったので、ライエルにとっては重要な収入源になった。しかしキングス・カレッジの評議会は、女性の参加はアカデミックでないという理由で、女性の出席を認めない方針に転換した。収入が減ってしまったライエルはこれに反発し、辞職の意向を固めた。後任には、ジョン・フィリップスが就いた。

 33年には、キングス・カレッジでの講義と同時期に王立研究所でも講義をもっていた。こちらは女性の出席も認められており、200名以上の出席者がいたが、受講料が安かったためにやはり収入は少なかった。

 ライエルは王立研究所の講義でも、聖書と真っ向から対立するような題材は扱わなかった。また、講義の時期に亡くなったキュヴィエについても、ライエルはその業績を称えている。

 ライエルのノートからは、各講義のために入念な準備をしていたことがわかる。ライエルが辞職したのは、講義のために必要となる時間に対して、得られる収入が割に合わないと感じたからであって、それゆえ『地質学原理』の新しい版が出て収入に目途がついた時点で辞職したのである。