2013年3月25日

増田芳雄『植物学史 ――19世紀における植物生理学の確立期を中心に――』

植物学史―19世紀における植物生理学の確立期を中心に植物学史―19世紀における植物生理学の確立期を中心に
増田 芳雄

培風館 1992-05
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増田芳雄『植物学史 ――19世紀における植物生理学の確立期を中心に――』培風館、1992年

1 『Planta』からみた植物学の変遷
ドイツの植物学専門誌『Planta』の変遷について書かれた章です。1955年までは掲載論文は全てドイツ語でしたが、1956年にはじめて英語論文が現れ、1975年以後はすべての論文が英語になっています。論文の著者も元々はドイツ語圏の人が殆どでしたが、60~70年代に世界中から投稿されるようになり、国際的な性格を帯びてきたことがわかります。研究分野を見ても、植物学の様々な分野の論文が掲載されていたのが、60年代以降には大部分が植物生理学に関するものとなり、当時の植物学の様相を窺い知ることができます。

2 19~20世紀の植物学 ―ザックスとペッファーの時代
19世紀のドイツにおいて植物学の近代化を押し進め、多くの重要な門下生を輩出したのがザックス(Julius Sachs)とペッファー(Wilhelm Pfeffer)でした。ザックスは実験植物生理学を確立した人物であり、その門下にはペッファー、F・ダーウィン、ド・フリース、松村仁三らが居ました。植物生理学の物理化学的基盤を確立したペッファーは、門下生がさらに多く国籍も多様であり、コレンス(Carl Correns)、ヨハンセン、三好学、柴田桂太らが居ました。オーストリアのウィーン大学では、ウンガー(Franz Unger)に始まり、ヴィースナー(Julius Wiesner)や仙台にもやって来たモーリッシュ(Hans Molisch)を含むウィーン学派が形成され、独特の細胞生理学の伝統をつくっていました。
初期の東京大学では教授の多くは外国人でしたが、植物学教授はアメリカに渡った矢田部良吉が務めました。谷田部門下で留学してペッファーのもとでも学んだ三好学は、帰国後に植物学第二講座(植物生理学)の教授となりました。柴田桂太など初期の日本の植物生理学者はほとんどが三好門下で、かつドイツに留学した人々でした。日本の分類学は矢田部や松村任三とその門下によって築かれましたが、大学教育を受けなかった牧野富太郎も著しい貢献をしました。東北大学農科大学(後の北海道大学農学部)では細胞学者の坂村徹が植物生理学教授になりました。また、坂村が札幌の農科大学で行なっていたコムギの細胞遺伝学的研究は、木原均に引き継がれました。

3 成長生理学
成長生理学とホルモン学はダーウィンローテルト(Vladislav Adolphovich Rothert)、フィッテイング(Hans Fitting)らの光屈性に関する先駆的研究によって基礎が築かれました。この基礎のもとに、ボイセン=イエンセン(Peter Boysen-Jensen)が光の刺激はゼラチンを通過することを発見し、パール(Arpad Páal)は刺激伝達物質があると考えてそれを相関担体と呼びました。これらの研究に基づき、1926年にウェント(Fritz Warmolt Went)がオーキシンの分離に成功しました。この後、成長生理学の研究の中心地はカリフォルニア工科大学の生物学教室に出来上がっていきます。

4 植物の分化
顕微鏡の改良を経て、1838年に植物学者シュライデンによって(そして動物学者シュヴァンによって)細胞説が提唱されました。フォン・モール(Hugo von Mohl)は細胞分裂の観察によってこれに実験的基礎を与えました。ネーゲリ(Carl Nägeli)は哲学的思想が観察に先行する傾向がありましたが、デンプン説やミセル説を発表して細胞構造の研究に貢献しました。『植物学教科書』の著者でもあるシュトラスブルガー(Eduard Strasburger)は、『細胞形成と細胞分裂』に細胞分裂の過程を詳細に記しました。

5 植物学の源流と展開 ―18世紀から20世紀へ
リンネ、ツンベリ(Carl Peter Thunberg)、ビュフォン、ラマルク、ド・カンドル(Augustin-Pyranus de Candolle)、ヘイルズ(Stephen Hales)などの業績が紹介されている章です。

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