2013年3月15日

進化論の総合と植物学 Stebbins, "Botany and the Synthetic Theory of Evolution"

The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New PrefaceThe Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface
Ernst Mayr

Harvard University Press 1998-02-15
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G. Ledyard Stebbins, "Botany and the Synthetic Theory of Evolution," in The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface, ed. Ernst Mayr and William B. Provine (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1998), 139-152 

植物学における進化論の総合の第一人者であるステビンズが、総合説の成立と植物学について振り返っている文章です。『植物の変異と進化』など、ステビンズ自身の業績についてはあまり触れていません。

植物学は総合説に対して3種類の貢献をしたといえる。総合に必要な事実の発見、植物学における実際の総合、そして総合説を受容したことである。

遺伝学は、モーガンらによる業績を除く全ての重要な事実が高等植物の研究から解明された。ここではメンデル、ド・フリース、ヨハンゼン、ベートソン、ニルソン=エーレ、イースト、ベリング(J. Belling)、マクリントック、ダーリントン(Cyril Dean Darlington)らの名前を挙げることができる。植物遺伝学者のバウア(Erwin Baur)はキンギョソウと近縁植物の研究を行い、植物における総合の第一人者と成り得る存在であったが早世した。

スウェーデンのチューレソン(Göte Turesson)は192231年に発表した研究で、植物学者が総合の前に直面する3つの基礎的問題に取り組んでいた。1つ目は既にヨハンゼンによって始められていた、遺伝子型変異に対する表現型変異の重要性の問題であり、このことは生殖質が体細胞組織から分離されていない植物では重大な問題であった。分子生物学の発展(the molecular revolution)までは獲得形質の遺伝を否定する理論的根拠は無かったが、一方でルイセンコなどのいかさま師を除き、獲得形質の遺伝を実証できた研究者もいなかった。ボニエ(Gaston Bonnier)は低地植物を高地に移植すると高山性の植物になったことから、環境操作によって植物を別の種に変えられると主張し、クレメンツ(Frederic Clements)も同じ実験をしていたが、実際には高山植物と交雑していた可能性がある。チューレソンは、観察可能な表現型変異には遺伝的要素による部分と環境要素による部分があることをはっきりさせた。J・クラウゼン(Jens Clausen)もボニエの説を否定した。

2つ目は種内での変異のパターンの問題である。チューレソンの立場は類型学的であり、種はさらにはっきり異なった生態型に分かれており、中間地域では複数の生態型が混合しているのだと考えていた。しかし、ラングレット(O. Langlet)の作ったスウェーデンの地図は、マツの形質の変異が生息地域の気候をそのまま反映していることがわかるものであり、チューレソンの立場が誤っていることを示すものであった。

3つ目は生殖隔離、種分化の問題である。このことについて、チューレソンはあまり自ら実地調査することはしなかったが、生態型、生態種、共同種、相互交雑可能個体群というヒエラルキーを確立した。しかしこのヒエラルキーは、植物に対してはあまり客観的な概念には成り得なかった。カーネギー研究所のJ・クラウゼン、D. D. KeckM. W. HieseyのチームはカリフォルニアでCalifornia tarweedを用いて生殖隔離の問題に取り組み重要なデータを得たが、クラウゼンは詳細が理解されるまで発表しようとせず、研究結果が出版されたのは1951年になってからだった。同時期のイギリスでは、種分化の問題について新たな一般的法則を発見した植物学者は居なかった。ロシアのE. N. Sinskaiaは生態型や系統について、地理的なものと同所的だが異なる生態学的地位を占めるものをはっきり区別した。またロシアのH. B. Zingerはアマナズナの研究で適応放散の最も良い実例を示した。

倍数性も植物の種分化における重要な基盤である。LutzGates1907年と1909年にド・フリースの変異したアカバナが通常の倍の28本の染色体を持っていることを実証し、同質倍数体の最初の発見者となった。イギリスのキュー王立植物園で作られたプリムラ・キューエンシスも種分化の形態としての倍数性の研究に貢献することになる。デンマークでは1917年にØjvind Wingeが倍数性について理論的説明をしていたが、第一次世界大戦のために同質倍数体を所持するイギリスと連携することができなかった。Wingeの理論の証明は、1925年にR・クラウゼン(Roy Clausen)とグッドスピード(Thomas Harper Goodspeed)が複二倍体の雑種を作ったことでなされた。さらに木原均はコムギの倍数性の研究を行い、ゲノムの概念を確立し、はじめて同質倍数体と異質倍数体を区別した。木原に続いて多くの倍数体の実例が確かめられ、こういった研究は種の起源が実験室や庭で確認できることを分類学者や植物遺伝学者に示すことで総合に貢献した。

一方で、ド・フリースやヨハンゼン、さらに植物学者ではないがモーガンやベートソンなどの、反自然選択説的な立場の理論は総合を遅らせていた。ヨハンゼンは熱帯や亜熱帯の風景を見ずに、きちんとした純系の豆が広がるデンマークの風景ばかりを見ていたためにこのような立場になったのではないだろうか。

全ての情報を総合して植物の種分化と進化についての一貫した理論を作るような試みは、『植物の変異と進化』以前にはJ・クラウゼン、KeckHieseyによるごく短い論文しかなかった。しかし、特定の植物について原理を考慮するなどした重要な業績はいくつかあり、組織学を用いつつイネ科を3つのグループに再編成したN. P. Avdulovの研究、バブコック(Ernest Brown Babcock)のクレピス属の研究、アンダーソン(Edgar Anderson)の戻し交配の研究などがある。 

1930年代から40年代に、シンプソンやレンシュが動物学で行ったようなことを植物学者が行えなかったのは、種より上のレベルで考えていた人々が形態学者と解剖学者しか居なかったからであろう。彼らは自然選択説に反対しており、形態の変化と環境の変化を結び付けることができなかったのである。


【メモ:チューレソンのヒエラルキー】
ecotype 生態型
ecospecies 生態種  不完全な生殖隔離障壁により分離されている集団
cenospecies 共同種、集合種  完全な生殖隔離障壁により分離されている、生態種の集まり
comparium 相互交雑可能個体群、コンパリウム  雑種第一代は生まれるが不稔であるような共同種の集まり

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