2013年3月7日

近代経済と近代科学、オランダ視点 Cook, "Moving About and Finding Things Out"

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Robert E. Kohler

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Harold J. Cook, "Moving About and Finding Things Out: Economies and Sciences in the Period of the Scientific Revolution," Osiris 27 (2012): 101–132.

一般に広く受け入れられている見解として、「科学の勃興が近代の経済的発展を起こした」という考え方がある。たとえば著名な経済学者のサックスの議論によれば、欧米社会の近代化やイギリス帝国の台頭は、産業革命に伴う経済構造の変化に起因しており、そして産業革命はそれに先んずる科学革命によって引き起こされたものである。また、科学革命によって、世界を研究して物を造り出し改良する文化的背景が生まれ、経済発展に繋がったのだと主張する論者たちもいる。こうした見解は本当に正しいのだろうか? 実際には、むしろ経済と科学はお互いにお互いを生み出す関係にあり、共に発展してきたのである。

近代経済の発展のために不可欠であった条件は、取引コストを下げるような社会的・制度的変革であった。こうした新しい経済が鮮明に現れ出た地域はなんといっても低地三国であり、注目に値する。オランダ共和国では、レヘントと呼ばれる主に商人出身の都市統治者たちが、技術革新を進める刺激となるような制度を作って成功していたし、また彼らが力を持ったことで、オランダでは商人たちが尊重するようなタイプの知識が重要視されるようになった。様々な人々が入り混じるオランダ市場の商人たちにとっては、品物等について信頼できる記述がなされることが重要であった。それゆえ彼らが尊重した知識は事実問題(matters of fact)と呼べる類の知識であり、彼らは原因についての深い推論よりも、経験に直結した詳細な物質的記述を重視しており、この気風が科学の発展につながった。また、この時期のオランダでは商人や職人にも読み書きや計算の能力が必要とされたし、支配層の商人の資金援助で多くの学校や大学ができ、識字率は大きく上がっていった。当時は科学技術と商業の双方で活躍した人が多く、二つの場が密接に結び付いていたことが窺える。

交易の場は情報のやり取りの場でもあった。オランダはヨーロッパだけでなく、貿易によって南北アメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアの諸地域をも結びつけた。オランダは貿易の中心地になることで、同時に科学・技術に関する情報やアイデアの流通の中心地、集積地ともなったのである。こうした文化間での情報のやり取りの中では、理論的な事柄や哲学的な概念は伝わりにくかったが、事実問題は理解されやすかった。「科学は普遍的な知識である」という言明はむしろ、事実問題が文化的・言語的な壁を越えて理解されやすい性質の情報であったため、それが普遍的な知識として想像されるようになったのだというふうに捉え直すことができる。

「なぜ中国で科学革命は起こらなかったのか」というニーダム・クエスチョンについては、中国では官吏が支配層にあり商人が力を持てなかったことや、そのために事実問題を評価するような制度的な準備ができていなかったことが関係しているだろう。ヨーロッパの船が世界中で海上貿易を行うようになった時期と、科学の出現の時期が重なっていることは偶然の一致ではない。科学の礎を築いたのは、世界中を動き回り、物を相手にして経験から知識を得て、様々な人々と交流して知識を共有する商人たちであったのだ。


追記
本論文については、坂本さんが批判的記事をブログに載せられているのでリンクを貼っておきます。
オシテオサレテ: 近代経済と近代科学 Cook, "Moving About and Finding Things Out

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