2013年3月18日

伝記:ステビンズ Smocovitis and Ayala, "George Ledyard Stebbins"

Vassiliki Betty Smocovitis and Francisco J. Ayala, "George Ledyard Stebbins," Biographical Memoirs 85 (2004)

ステビンズの『植物の変異と進化』は、ドブジャンスキー『遺伝学と種の起源』、マイヤー『系統分類学と種の起源』、シンプソン『進化のテンポとモード』と並び、進化の総合説として知られるようになった著作であり、他の本の内容範囲を植物に広げた。これら4冊はすべてコロンビア大学のJesup Lectureの成果である。1941年にJesup Lectureを担当したアンダーソン(Edgar Anderson)は、『系統分類学と種の起源』の植物学バージョンを書くように依頼されたが、これを果たさなかったので1947年にステビンズが招かれ、講義の副産物として『植物の変異と進化』が生まれた。ステビンズの調査は主に野外で行われ、実験室では採集した標本の染色体数を決定したり、交雑の有無を調べたりした。

ステビンズは上流中産階級のプロテスタントの家の生まれであり、両親は博物学にアマチュア的興味を持っていた。ステビンズは3歳の頃には既に植物に興味を示しており、また突然怒りを爆発させる性格や、手工の不器用さも幼い頃からのものであった。学校は全て私学に通い、名門校Cate Schoolでは植物学者のRalph Hoffmannと出会い、大学は兄のHenryと同じハーバード大学に進学した。大学で専攻を植物学に決め、大学院ではMerritt Lyndon Fernaldに教わるが、ステビンズは彼を時代遅れと嘲り、むしろKarl Saxの細胞遺伝学的研究に興味を惹かれた。博士課程ではE. C. Jeffreyと共にAntennaria属の大胞子形成・小胞子形成の解剖学的・細胞学的研究に着手するが、JeffreyはT・H・モーガンのような遺伝学的研究に強く反対していたため、ステビンズとは諍いになった。ステビンズはSaxとの交流を深め、さらに遺伝学に傾倒していった。

1930年のケンブリッジでの国際植物学会議に出席し、アンダーソンやIrene Manton、C. D. Darlingtonに出会った。博士号取得後の4年間をコルゲート大学で過ごし、ここではPercy Saundersと共にボタン属の雑種の染色体研究を行った。1935年、バブコック(Ernest Brown Babcock)に招待されてカリフォルニア大学バークレー校に着任し、クレピス属の研究に加わった。バブコックらのクレピス属の遺伝学的研究は、T・H・モーガンらのショウジョウバエの研究に張り合おうとするものであった。1938年にステビンズとバブコックはアメリカのクレピス属についての論文で倍数体複合のアイデアを示し、先駆的な業績とみなされた。さらに1940年、1941年、1947年にも倍数性に関する論文を発表している。

1939年にステビンズはバークレー校の遺伝学の部門に異動した。この頃、ドブジャンスキーや新しい動きを見せた生物系統分類学者たちとの関係のために、ステビンズは進化への興味を深めていった。1930年代中頃からサンフランシスコ湾周辺では進化学が盛んになり、ステビンズは特にJ・クラウゼン、David Keck、William Hieseyらの仕事を注意深く追っていた。ドブジャンスキーはステビンズにとって最も重要な進化学者であったといえる。

1950年に『植物の変異と進化』を発表し、自然選択を強調しつつも、ドブジャンスキーの影響で遺伝的浮動や非適応的進化も認めた。しかし、この本がソフトな遺伝(ラマルキズム)などの進化メカニズムを否定したことにも大きな意義があった。また、ドブジャンスキーやマイヤーの生物学的種概念を支持したが、それは植物ではうまくいかなかった。ステビンズの2番目に重要な著作は1974年の『顕花植物:種レベルより上での進化』である。

1950年にデービス校の遺伝学部門に移り、1963年までそこで主任教授を務めた。ステビンズは進化学の教育にも強い関心を持っており、“科学的創造論”とも活発に戦った。また、初期の環境保護論者の一人でもあった。1973年に退職したが、その後も研究活動や客員教授などを続け、2000年に亡くなった。

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