2013年3月4日

日本人と西洋人の日本植物研究 大場秀章『江戸の植物学』

江戸の植物学
江戸の植物学
大場 秀章

東京大学出版会 1997-10
売り上げランキング : 747094

Amazonで詳しく見る by G-Tools







大場秀章『江戸の植物学』東京大学出版会、1997年

江戸時代の植物学について、貝原益軒、小野蘭山などに特に注目する一方で、ケンペル、ツュンベルク、シーボルトなどのヨーロッパ出身の学者にも注目し、両者の比較を試みる本です。

江戸時代の本草学の隆盛の背景には、戦乱が収束して人々が健康や長寿を願うようになったことがある。江戸時代初期の本草学者たちは、日本の植物が中国のそれと異なるとは考えておらず、それゆえ明時代の李時珍の『本草綱目』(1596年)を踏襲し、これに日本の植物を当てはめていく文献学的研究が中心であった。貝原益軒の代表的著作『大和本草』(1708年)も、『本草綱目』に載っている植物について、知り得た全知識を開陳するような形で補筆している部分が多い。しかし『大和本草』では、『本草綱目』や他の中国の書籍に載っていない植物については「和品」として記載することで、中国にない日本の植物を発見する業績となった。

益軒と同時代のケンペルは、ウプサラ大学に学んだ後、スウェーデンの外交使節団の一員として日本に2年間滞在した。ケンペルは『廻国奇観』(1712年)の中で日本の約400の植物について取り上げ、ヨーロッパの植物と比較しながら説明している。益軒の関心がどちらかといえば植物の利用に重点を置いていたのに対し、ケンペルは植物自体の特徴を詳細に記述しており、植物の観察力には大きな差が覗える。のちにリンネはこの『廻国奇観』に基づいて日本の植物を命名してもいる。

8代将軍の徳川吉宗の時代には、人参などの薬草を国産化する施策のため、本草学者たちが多数登用されるようになった。江戸時代を代表する本草学者である小野蘭山も晩年に仕官し、『本草綱目啓蒙』(1803~06年)によって日本における『本草綱目』研究を完成させた。これまでの研究における植物の名称の異同を正したことも大きな業績である。蘭山の植物観察やその表現は、『大和本草』に比べて極めて精度が高くなっており、この間の本草学の進歩を窺わせる。しかしその記述の的確さは、ケンペルに比べればなお及ばない。

蘭山が活躍している時代に来日したツュンベルクは、ウプサラ大学でリンネの弟子となった人物であった。ツュンベルクの『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』はリンネの分類体系に基づいたもので、現代の植物学にも通じる完成度の高い著作である。しかしこの著作が日本の学者に注目されるのは遅くなり、江戸時代の日本ではリンネの分類体系はまったく浸透しなかった。日本では「種」の認識がなく、自然分類法ではなく『本草綱目』以来の人為分類法を採り続けた。また当時の日本には、標本を保存することで後の研究者による再検討を許したり、最初に発見した人のプライオリティを重んじたりといった発想もなかった。

日本の植物への興味を抱いたドイツ人医師のシーボルトは、オランダ人を装って1823年に来日した。出島に植物園を建設して生きた植物を収集し、絵師としては川原慶賀を雇った。帰国の際にはシーボルト事件に巻き込まれつつも、最終的には大量の生きた植物と押し葉標本を持ち帰ることに成功した。植物学者のツッカリーニの協力のもと、シーボルトもまた『フロラ・ヤポニカ』(1835年)というタイトルの著作を出版した。二人の植物学的記述は、現代の研究に比べても遜色のないものである。

本草学者の伊藤圭介は来日中のシーボルトに教えを受け、ツュンベルクの『フロラ・ヤポニカ』を贈られた。圭介はこの本をもとに『泰西本草名疏』(1828~29年)でリンネの植物分類体系を紹介し、本草学者から植物学者へ転生した。圭介門下の賀来飛霞(かく・ひか)は最後の本草学者ともいうべき人物で、圭介と共に東京大学小石川植物園に勤務したが、彼らは欧米由来の近代植物学と対峙する孤立無援な立場にあった。ケンペル、ツュンベルク、シーボルトら外国人研究者が収集した標本に基づく欧米での組織的研究は高度であり、明治時代に文献輸入に制限がなくなると、それらを継承した矢田部良吉、松村任三らの植物学者に研究で凌駕されるようになってしまった。しかし、日本の植物をリンネの分類体系の中に位置付ける際に、本草学の蓄積が大きな貢献を果たしたことは間違いない。

0 件のコメント:

コメントを投稿