2013年3月3日

藤田祐「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」

藤田祐「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」、2004年

先日、藤田祐先生から論文「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」を戴いたので読ませていただきました。藤田先生、ありがとうございました。


ハクスリーは1893年に行った講演「進化と倫理[ロマーニズ講演]」の中で、<宇宙過程>と<倫理過程>という考え方を示した。ハクスリーによれば、<宇宙過程>は人間の事情に関わらない進化の過程であり、<倫理過程>は文明と倫理の発展過程である。1894年に出版した「進化と倫理 プロレゴメナ」では、<宇宙過程>の内部での<倫理過程>の進行を、<自然の状態>の中に<人為の状態>を築く庭造りに例えている。人が庭を放置していれば増殖によって生存競争が発生してしまうが、人為的な力を用いれば庭の中での増殖を制限して生存競争を取り除くことができる。ハクスリーはこのアナロジーで、<倫理過程>は常に外部の<宇宙過程>の力に常に晒されておりそれに抗う過程であること、人間社会と自然のあいだには対立関係があることを示唆している。 【1-i, 1-ii】

この<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、異なるレベルのもう一つの対立、すなわち人間精神における自然的な本能と人為的な良心の対立と密接に結びついている。生存競争によって獲得された人間の自然本能は動物的で利己的なものであり、社会を発展させるためには良心によってこれを抑制しなければならない。つまり、人間は社会においては外部の自然に抗い、精神においては内部の自然に抗う、二重の闘いを行なっているのである。この闘いは完全に勝利する見込みはない永遠の闘いである。しかし、ハクスリーは<自然>と<人為>はどちらも社会にとって必要なものであり、両者のバランスがとれるのが望ましいという両義的な価値判断をしている。 【1-iii】

ハクスリーが1888年に発表した「人間社会における生存競争」は貧困問題について論じたものである。ここでハクスリーは、マルサスの『人口論(初版)』に代表される、自然を道徳的な規範として、また統一性・完全性を持つ秩序としてとらえる見方を批判し、自然は道徳には関わりのないものだと結論する。さらにハクスリーは、進化と進歩を同一視する発展論的見解もダーウィン進化論に基づいて批判している。自然に目的や道徳的意味を見出だすことはできないから、道徳的目的を持つ人間社会の基礎原理にはならない。ハクスリーの<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、このような自然観に基づいているといえる。 【2】

人間社会もまた自然の一部といえるが、ハクスリーは人間社会を自然と区別することが有益だと考える。社会は自然での生存競争を脱出し、平和を実現するために成立したもので、道徳的目的を持っている。自然と社会の対立は、ハクスリーのいう<自然人(natural man)>と<倫理人(ethical man)>の対立と平行している。しかし<倫理人>も、<自然人>の持つ本能を受け継いでいる。ハクスリーは、<自然人>の生殖本能がマルサスの人口圧を生み出し、貧困をもたらして生存競争を引き起こし、人間社会を崩壊させるのだと論じる。 【3】

ハクスリーは、この貧困に対する解決策は諸国間の産業競争に勝つことだと考えた。そして、産業競争力を高めながら労働者を困窮させないためには生活環境や知的・道徳的環境を改善しなければならないとして、公的な科学技術教育の必要性を訴えた。これは公教育を認めない強硬な個人主義教育論に対しての批判となっている。

ハクスリーは1891年の『社会の病気と最悪の治療法』の前書きにおいて、<アナーキーな個人主義>と<統制社会主義>の双方を有害だとして批判した。ハクスリーの<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、個人主義と社会主義の対立と密接に関わっている。個人主義は社会を自然に委ねるものであり、一方で社会主義は人為によって社会を完全にコントロールしようとするものであるといえる。人為によって自然に抵抗することは必要だが、人為が自然を完全支配するのは不可能であり、それを目指すのは有害だとハクスリーは考えた。ハクスリーの立場は、自然と人為に対して両義的であり、個人主義と社会主義の中道を行くものであったといえる。 【4, 結論】

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